ジャック・ニコルソンのアバウト・シュミットを観た。今日は映画の日でほぼ通常の半分の料金で観る事ができる。映画好きには外せない月一回のチャンスというわけだ。
この間「マトリックス2」を観て、もうこういった特撮は飽きた、我々が観たいのは空飛ぶ車でもないし、信じ難いほどの超能力でもない、きっちり人間を描いて欲しい。なんて生意気な感想をかいたのだけれど、同じような感想を持つ人にはこの映画はおすすめだ。
ジャック・ニコルソンといえば「カッコーの巣の上で」とか「シャイン」近くでは「恋愛小説家」など、そうそう「スーパーマン」の悪役でも主人公のスーパーマンを完全に食っていた。そんな癖の有る俳優で、お気に入りの一人なんだけれど、この映画の予告を見ただけで、これは是非観なきゃと思っていた。
この映画は彼一人のために撮られた映画だ。いってみれば彼がこの年になるのを待って撮られた映画だということができるだろう。一人の優れた俳優は、ただ単に年取った老人ではないということだろうか。彼はこれからも我々に心に染みとおるような映画を作ってくれるだろう。
志村喬の「いきる」を思い出した。~いのちみじいかしぃ、こいせよぉおとめ~
我々から少し上の世代、そろそろ定年を迎えた先輩諸君に観てもらいたい。
(はる 751より転載)
インテリアコーディネーターとかキッチンコーディネーターだとか、まぁいわゆる建築関係のその周りの仕事が注目を集める。建築そのものはどちらかと言えば男性的な仕事で、その周りの装飾的な仕事は女性的な仕事と言えるかな。
一時、定時制の建築の関係の専攻科で色彩の基礎的なことを教えていたこともあって、そんなことも少し勉強した。まぁほとんど独学のようなもので、専門的にそのことについて学んできたわけではない。
日本の建築家の建物は、丹下健三などを筆頭に海外でけっこう評判をとったりする。外国の本屋さんで見かけたのは建築家の名前の入った本ばかり目に付いた。日本国内で建築家はそれほどメジャーな職業だっけなぁ・・などと思ったものだ。
西欧諸国の基本的な考え方は、アートは建築に集約されると考えている。有名な彫刻家が建築家であったりしたし、当然絵もかけたのだ。考えてみると、絵は壁にあけられた窓だったし、室内のインテリアは建築の装飾の一部だったのだろう。そこの考え方が、日本人の建築家とは大きく違う気がする。
日本の建築家の建物が奇抜で海外で注目されるのは、ある意味で日常の生活観とかけ離れたものが多いからではないかなぁ。というのは、我々が考えている建築というものは建物だけで完結していて、そこでの生活みたいなことは置き去りにされている。建築家はそこまで責任を持たなくてもいいと考えているのではないかな。
有名な安藤忠雄の出世作「住吉の長屋」は例によってコンクリートの打ちっぱなしなんだけれど、トイレが外にあって雨が降った日は傘を差してトイレに行く、そういった建物だそうだ。話としては面白いけれど、はっきり言って住み辛い。
それは我々の側からもいえないかな。絵を掛ける、飾る、ある種の見せ方、TPOそんなことを考えて絵を描いている作家はいるだろうか。絵は有名な画廊や美術館で鑑賞するもので、自分たちとは関係ないものだと考えてはいないだろうか。しかし本来絵画は壁にかけられて、飾られて、日常生活の中で鑑賞されて初めて完結するのだな。これはかなりきわどい意見だけれど、どうだろうか。
どんなに素晴らしい芸術品を持ってきても日常生活の中でそれが使いこなせなければ、ただの絵に描いたもちで何の意味もなさないということを言いたかったのだ。
(はる 1398より転載)
6/19 11s
クロッキー6/19 10s
クロッキー6/19 9s
6/19 8s
クロッキー6/19 7s
たとえば、少し前「日本人には顔がない」などと言われた。どういうことかといえば、商談が成立するそこまではにこやかにそして有能に事が進むのに、その後日常会話になるとまるっきり会話が進まなくなる。
海外でもよく知られた「能」や「歌舞伎」、それこそ人間国宝級の話は一般教養として有能なビジネスマンはしってはいるだろう。けれど、それは単に教養であって、自分の身についているものではない。
アートというのは何も特別なことではない。特殊なそれこそ限られた人間だけが楽しめばいいというものではない。全てのことが自分の人生とつながっています。それをいかに自分のことばで表現するか、それがアートだと思いますね。
どうでしょうか。
う・・ん。それにしてもなんとも面白くないお題ですね。アートのトラックバック、何とか面白い文章をとかんがえるのだけれど、身近に「人間国宝」なんて人がいませんし、それに大体が伝統工芸や職人の人たちで、お年寄りが多い。旬のアーティストという意味では、少し違う気がしますね。
大体日本人は肩書きがすきでね。芸を見るより肩書きを見て「ほ、、、」などと感心している。要するに自分独自のものさしがないのでしょう。まぁ難しいちころですが、そういった教育がなされていないということでしょうかね。
文化勲章なんかでも海外で先に認められてから、跡でおずおずと受賞なんてことが多いな。なんだろう、この国は、そういったことでも独自のものさしがないね。
もうある程度認められたものに賞を出しても仕方ないのでね。青田刈りでも、お手つきでも、これだとおもった人物やアーティストをどんどん「人間国宝」にしてゆけばいい。褒められりゃ、豚も木に登るで、その中で一人か二人まともなやつが出てくればいいのじゃないかな。どうでしょう。
裸婦クロッキー 6/19 4s
(はる 1459より転載)
クロッキー6/19 2s
はる 1463
今日は朝から裸婦のクロッキーにでかける。一ヶ月に一度だけれど、もう10年以上は続いているかな。何事も継続は力なりってね、どうなんでしょうか。技術をみがこうとは思っていないのですがね。
モデルに対峙すると余計なことはほとんど考えない。どうすればそこにいるモデルの動きとか緊張感を画面のなかに定着できるか、少しはましな線がひけないかなど、ほぼ頭の中は空っぽになっている。
私の本画というのか、日ごろ描いている絵は、実際のモチーフを観て描くことがない空想画ということになるのかな。何もかかれていない画面を見ながら、自分の心の中を彷徨している。それゆえに具体的なモデルを見て描く行為は反対に、新鮮にかんじる。また楽しい。絵を描くことの原点だろうなと思う。
最近は色んなゲームやバーチャルな機器が盛況だけれど、こうやって鉛筆一本で楽しむことができる遊びは単純だけれど、普遍性があるように思う。出来るだけ多くに人にその楽しみを分けてあげたいと思うのだけれど、絵を描く人口は減っている気がするな。
さて、今日はここまで。また明日。
髪を長くして後ろで縛っていたらかなりの量の髪が抜けた。もっともそうでなくとも薄くなってきていたのだが、あと何年今の髪型でごまかせるだろうか。
とうに亡くなった親父も、そのまた親父もはげていた。特に祖父はみごとに禿げ上がってかがやいていた。母方の祖父もはげていたことを考えると、隔世遺伝の法則によれば、避けられないということだ。まぁ兄たちをみれば、自分の近い将来の予測がつくというのものだ。まぁ楽観はできないねぇ。
はげることがほぼ見えてくると、町を歩いていても同じような年恰好の親父の頭が気になる。特にやや寂しくなってきたような同類をみると、「おっ、勝ったかな。いやかなり負けている」と勝負にでている自分を発見して、やや悲しくなる。他人から見れば同じ穴の狢というわけだ。
姑息にも隠すのが一番かっこうわるいとおもうので、最終的には坊主丸刈りという手が残ってはいるけれど、あくまでもこれは最後の手段で、どんなはげ具合がかっこういいか色んなパターンを観察している。
親父はまったく気にしていなかった。あたりまえだけど、それなりにカッコよかったね。
そういえば尊敬しているヘッセもガンジーもかっこよく坊主?だったなぁと視野に入れて慰めている。どうなることやらね。ははははは・・。 (はる 1174 より転載)
ちょっとテーマとはずれるのだけれど、「働きたい場所」というのを 、仕事の種類ととった。そういった解釈もありでしょうか?
先日フランス映画「コーラス」を観た。その主人公はしがない田舎音楽教師。これがなかなかいい。映画の感想でTBしようかとおもったのだけれど、映画のテーマはドイツ映画だったので、ちょっとテーマとはずれるけれど、「仕事」ということで許してください。
フランス映画にしろイタリア映画にしろハリウッド映画にはない独特の雰囲気がある。無論ハリウッド映画の豪華な特撮や、アクションも大好きなんだけれど、映画館から出てきた時に、何かほのぼのとさせられるのは、ヨーロッパ映画のほうが多い気がする。
それは多分誰も死なないし、何も壊れないし、おおきな事件もおこらないのだけれど、そこにしっかりと人間が描けているからじゃないかな。
人にものを教えるのは楽しいことだ。生徒との関係が上手くいっているときは、お互いにいいところを引き出すことができる。そういったことはまれなんだけれど、確かにあるきがするな。
教師というのは職業としていい仕事だと思う。ある意味人間のいいところだけを信じて、徹底して理想を言いつづけてもいい職業だからだ。そんな仕事は他にない。
主人公の教師が「手なずける」と言っていたけれど、まさに教育とは「うまく乗せてやる」ことだと思う。私は度量がなかったために続けることができなかったけれど、一生一教員に徹するという生き方もいいかなと、ちょっと思った。
荒れた子供たちが段々に心開いて、一つの歌を作り上げてパターンは予定調和だけれど、ボーイソプラノの美しい歌声がそれを充分にカバーしていると思う。すがすがしい、後味の秀作だった。
工芸についてはあまり知識もないのですが、装飾的な工芸作品をアール・デコと呼んで、日本人はわりと好きみたいですね。
まぁでもたとえばガレなんかをみても、日本人の感覚としてはあまりにもリアルすぎて、これって工芸?と思うことが多いですね。工芸としてはたとえば日本の漆絵とか蒔絵なんかのほうがずっと洗練されているのではないかな。
浮世絵なんかもそうだけれど、これをまともに評価したのは西欧の美術家たちで、印象派の画家に影響を与えたのはよく知られている。
それと同じように、ひょっとすると、時代的にいって本阿弥光悦、宗達は17Cだし、琳派の光琳は18Cだということを考えると、西欧の工芸師たちに影響を与えたのは彼らだったのかもしれないなぁ。
個人的には、同じ装飾的な作品でもスペインの建築家ガウディーとか、オーストリアのフンデルトワッサーとか、クリムトなんかが好きですね。ちょっとちがうかな。では。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館