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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

2003-1 - 2003.01.01(日記)
1月31日 (金)


はる 630
 昨日書こうと思ってはじめたら、いつのまにか違う文章になっていた、まぁこれでもいいかとアップした。で今日はそのつづき。

 ちょうどサイケデリックなる言葉が流行っていた頃で、アングラ演劇とか二三日前に新聞に出ていた人形作家の四谷シモンや、横尾忠則なんかが盛んに活動していた頃で、30年も前の話だ。
 その頃のマニアックな漫画にガロという雑誌があった。マイナーだけれどそれを誇りにしているような自虐的な妙な雑誌だったけれど、その中に毎回新人が、見たこともない絵や物語で登場してくる。大体二三回で消えていく人も多かったが、そういった露と消えた作家の作品でも、ぼんやりとだけど残っている作品が幾らかある。其の中の一つにこんなのがあった。

 かなり未来の話で、どういった事情だったのか前後の脈絡は全く忘れてしまったけれど、人間と機械が部分的に融合していくという話だった。最初は人間が優位にたって機械をコントロールしているのだが、次第に機械の方が優勢になって肉体ともどもその中に組み込まれていくという話だった。物語そのものは新しくもないのだけれど、有機的な人間のからだが無機的な機械と相互に行き来できるという発想と(ちょっと無理があるけれど、セザンヌの話とリンクする)それが一種の無性生殖として表現されていることに面白みを感じた。

 「我儘な遺伝子」ということをどこかで聞いたけれど、我々は今すでにもう取り返しのつかない所へ来ているのかもしれない。人為的な今回の戦争の話だけじゃなく、化石燃料のことから始って地球の温暖化、環境の汚れや食料などなど、色んなことをながめて考えてみても、そう人類は長くないなぁと思ったのではないだろうか、だれが?そう大いなる者がさ。

 で自分が今まで蓄えてきた色々な情報を、絶えてしまう生物に伝えるという手段をとらずに、直接情報として残そうとしはじめたとは考えられないかねぇ。もう人類は「遺伝子君」に見限られたとも言えないか。 

 2/1
「みちをきく1」1999 S100     作品を観る
 アッシジのジョットのフランチェスコの壁画「鳥に説教」から来ている。

 色を使う事を極力避けた。理由はなにもないのだけれど、求道的になること、一つの事を追求することは、何故か色を使っては出来ない気がしていた。「色」「欲」みたいなものを極力排除したかった。今はまだ色を使ってはいけないと誰かに示唆されたきがしたからだ。「こたえてください」から、ここ数点ほぼモノクロの絵を描いている。以前あれほど色に自信があって自分の持ち味は色だと思っていたのに、ここに来て否定的な仕事をしている。

 「貴方は他と競争することを止めてしまった」と言われたことがある。そんな気はさらさらなかったのだけれど、言われてみれば確かにそうかもしれないね。今見るとまだまだ本物ではないけれど、やろうとしていることは分かる。

 「宗教的な気分」がうまく表現されているだろうか?


更新時間 : 12:30:32

1月30日 (木)


はる 629
 州之内徹だったかなぁ「きまぐれ美術館」という、だらだらしたエッセイに「セザンヌの塗り残し」という一文があった。まぁ一流になる人は、こういったタイトルからして「上手い」と感心する。「きまぐれ美術館」はまさに「きまぐれ」だったし、セザンヌのセザンヌたる所以は「塗り残し」にあると思えるからだ。

 セザンヌに「ここはまだ途中ですね」と誰かがたずねたら、「これはいつも終わっている」と答えたとか。一筆一筆がそれで完結しているということだろうか。たとえばこういうことだ、今日一日の仕事が終わったとする、無論長い目でみればまだ完成はしていない、けれど未完成ながらそれはそれで「独立した作品だ」ということだろう。

 例えばこういうことでも言えないかな。わたしのギャラリーの「過去の作品」は、古い順番で展示していない。もし古い作品から晒していくとすれば、たぶんまだ全体像がまだ見えていないと思う。今のような展示の仕方であれば、見る人はいつも私の全体像を感じながら、安心して?一つ一つの作品を見れるのじゃないかと思っている。ただ単に面倒臭くなって何時やめても言い訳が立つようにというわけでもあるけれどね。

 絵を描く事がただそれだけに終わらずに、色んなことに波及することはよくあることだ。

 人生は「日々塗り残し」。

 


更新時間 : 22:43:42


1月29日 (水)


はる 628
 今住んでいるボロイ中古住宅は、バブルのもう終わった頃に、購入したものだ。とはいっても私が買えるからにはそれなりの「訳あり」の物件なわけで、それを承知で購入したものだ。

 それはいいのだけれど、当時の銀行は鼻っ柱が強く、我々のような弱小零細企業にはなかなか融資してくれなかった。特に「訳ありの物件」など論外だった。まぁ非は私の方にあるのかもしれないけれど、どうにも腹の立つ対応が多かった。普段温厚な私ですが、「二度とここには頼まん」と憤慨したものです。ところがバブルの崩壊後、そういった高飛車な商売が反感を食って、ここにきて手のひらを返したように、庶民金融まがいのことを始めた。何だ今更と思うのは私だけではないと思う。

 私は自動引き落としされるほど定期の収入がないので、大体あるときにコンビニに払い込みに行く事にしている。まぁとてもメンドクサイことだけれど、私のようなその日暮らしには、それも似合っているかなと思っている。

 先日ある施設の使用料金の払い込みの用紙が来た、仕方ないので例の銀行にいったのだが、未だに「待ち時間」なる対応をしていて「おいおい、コンビニじゃもう済んでるよ」と思いながらも大人しく順番を待っていた。で自分の名前が呼ばれたので行ってみると「これはATMで支払った方がいいですよ」と親切顔で言われた。「いや面倒なので、ここでやってください」と言うと手数料が200円も取られるという、「じゃATMでやります」といえば、それでも105円かかるというじゃないか!何で一割もこんなことで取られるのか理解に苦しむ。「じゃ直接に払いに行きます」と言えばそれでも、結局は銀行振り込みになるので同じだということだった。何で私がサービスの悪い、未だに態度の改まらない銀行を助けなくてはならんのだ。いやだ!

 こんな銀行というシステムは遅かれ早かれつぶれると思う。


更新時間 : 17:44:53


1月28日 (火)


はる 627
 「海と六角堂」1988 F80     作品を観る
 同じ構図でバックの風景が少し違う「葡萄畑と立葵」と姉妹作品。当時盛んに色んなコンクールに出品していて、その大きさにあわせて作品を描いていた。アイデアが間に合わないという事もあるけれど、一つのモチーフで複数の作品を描くというのは、今でも時々やる。やり残したことがあった場合や、連作にいいテーマだったりした場合。最近では「まれびと」や「さいわいびと」「いのりのかたち」などなど。

 バックの風景は30年ほど前の実家の窓から見た風景。今は世界一大きな橋が架かって、未来都市のような風景になってしまった。個人的にはひなびた昔の風景の方が好きだ。昔、まだ絵をはじめて間がない頃、藤島武二の画集を見ていたらここらあたりの風景が出てきてびっくりした。 
 
 


更新時間 : 22:28:20


1月27日 (月)


はる 626
 「無限の話」3
 どうも一昨日あたりから延々と考えていて眠れない。随分と昔に結論出したはずなんだけれど、また蒸し返してきた。単に素人考えなんだけれど、聞いてくれますか?

 1メートルの棒の話の続き。半分に切ったときに世の中の尺度が半分に縮小されるとすれば・・・なんて話をしたけれど、実際にそんな事は無い訳で、そんな仮定の話されてもなぁと思うかもしれないね。しかし実はそういったことが起きているのだよということを説明したい。間違ってるかもしれないけれどね。

 例えば時速100キロで走行している車があるとする。我々はそれについて同じ100キロで真横から写真を撮るとすると、車は止まっているように写る。次に我々は半分の50キロで走行しながら同じ車の写真を撮ったとすると、たぶん車は2倍に引き伸ばされて写る。ところが運転手から見れば自分たちが2倍になった自覚は無いので、反対に我々の方が半分になったように見える。
 次に我々は止まって同じ車を撮影したとすれば。車はかなり引き伸ばされた様子に写る。無限大ではないだろうけれど。運転手からみれば我々は限りなく小さく縮小される。

 宇宙の果ては我々から遠いほど速く遠ざかって見えるという話は前に書いた。ということは我々から十分に遠い「宇宙の果て」は光速で我々から遠ざかっているように見えるということだ。反対に「宇宙の果て」から見れば我々の方が光速で「果て」から遠ざかっていることになるのだろう。

 無限に見える宇宙は遠ければ遠いほど縮小されているのだ。無限とは実は1メートルにも満たないちっぽけな空間だったということもありえると思う。その小さな袋の中に、空間も時間も閉じ込められているのだとすれば、とても愉快なことではないかと思う。
 
 さてうまく説明できたでしょうか、まだ何か言い足りないきがしますが、これで一応終わりにします。絵も描かなくてはならないのでね。

 

 


更新時間 : 14:23:50


1月26日 (日)


はる 625
 無限の話をもう少ししたかったけれど、今日は止めにした、また今度の機会に。

 親父は物凄く怖い存在だった。具体的に殴られた、とか大きな声で怒鳴られたという記憶はないのだけれど、兄弟が恐れていた存在というのは不思議と下の弟たちにも伝わるものだ。だから親父のいる日曜日というのは、一種異様な緊張感があったし、安心感、平和な感じというのはあった気がする。

 早い時期に親父は亡くなったけれど、自分の中に強烈に「怖い存在」というのがインプットされた。これはたぶん消える事はないだろうし、幸か不幸か色んな意味で私のベースを作っているのだと思う。亡くなってしまっているからよけいに越える事ができないでいる。

 何でもない普通の家庭に育った人間が、今のような生活に入るにはかなりの勇気がいった。それはたぶん両親からそれとなく受け継いだ「幸せの定義」みたいなものだろう、それを捨ててまで価値有る「定義」が見つかるかどうか、言うのは簡単だけれど、二十歳そこそこでそれに気付くことは難しい。

 今もまだよく分からないのだけれど、そういったことで悩む事がなくなったという事で良しとするしかないか、と思っている。
 


更新時間 : 21:47:06


1月25日 (土)


はる 624
 「無限の話」で質問が来たので、もう少し付き合ってもらうか。しかし、これはあくまでロマンティックなポエジーの話で、けっして事実ではないので其の点くれぐれも誤解のないように。

 アインシュタインが予測した事に「空間は曲がる」ということがある。ようするに我々が住んでいる空間も絶対なものでなく、飴に描かれた金太郎のように、伸びたり縮んだりするということらしい。

 でそれではどうなんだろう、そこに住んでいる人間にとっては歪んだり伸びたりした自覚があるのだろうか?たぶんこういったことだろう。B4に描かれた人間がB5に縮小されても、半分になった自覚はないと思う、なぜなら自分の住んでいる周りの世界も半分になってしまうからだ。で昨日の1メートルの棒の話になるのだけれど、半分にした時に世の中の縮尺が半分になるとすると、いつまでたっても其の棒は1メートルということになる。無限の彼方とはこういうことでないかと思う。
 
 ところで宇宙の果てのことだけれど、物の本によれば我々から遠いほど速く我々から遠ざかっているように見えるということらしい。しかし実は遠いところはどんどん縮小がかかって、我々には無限にみえるけれど、実際はそんなに大きな空間じゃないのじゃないかと、私は考えているのだ。

 なんだかばらばらだなぁ、わかってもらえたかな。


更新時間 : 22:21:48


1月24日 (金)


はる 623
 子供の頃に夜空を見上げて、「この星空の向こうはどうなっているのだろう」と、みんなで自分の考えを言い合ったりした。多かれ少なかれそういった話はどこにでもある。

 宇宙の大きさを考える場合、今住んで立っているこの地球を元に考えては間違いをおかす。普通に考えれば昔の人が考えたように、この地にも果てがあって、いつか奈落の底へまっしぐらに落ちていくだろうとするのもまんざら笑えない。

 前にも書いたおぼえがあるのだけれど、無限というのは有限なんだということだ。たとえば1メートルの棒を半分にして地面に立てる、其の半分をその上に継ぎ足すとする。半分半分と継ぎ足していけば理論的には永久に増えていく勘定になるけれど、実際は1メートルを越える事はない、あたりまえだけど。たぶん宇宙もこんなふうに有限なんじゃないかと思う。

 時間というのも実の所、有限なんじゃないかと密かに思っている。無論我々一人一人が生きる時間のことではなくて、永遠に続くと考えられているこのじ・か・んのことだ。

 何が言いたいのか、こんな話になってしまった。まぁいいか、そのうちにまた。



更新時間 : 20:18:58


1月23日 (木)


はる 622
 雪だ!
 午前中と午後、二回も雪かきをする。それでないと明日、外に出る時に苦労する。関西に住んでいたときには、自分が雪かきをする生活をするとは、夢にも思っていなかった。まぁ年に何回も無いので良しとしよう。
 ということで今日は一日閉じこもって絵を描いていた。お終い。


更新時間 : 23:29:29


1月22日 (水)


はる 621
 「こたえてください」1997 S100  作品を観る
 油絵じゃない最初の大作ということになる。実はこの何年か前に古い木造家屋を購入、ほぼ自分一人で改造した。そのときに使った土壁の材料や水性ペンキ、大量の木工ボンドが残っていた。そういった絵画材料でない、どちらかといえば建築材料みたいなものでこの絵はできている。

 学生の頃、奨学金が入ればまず画材やに飛んでいって、高い油絵の具を買うことからその月は始まった。今から考えると描画の材料は本当のところ何でもよかったのだ。そこら辺の手に入る画材で描くこと、それが今を生きる我々の一番身近な「今の表現」ということになるのではないか、そんなことに今頃になって気づいた。

 ヤドカリが何も知らずにペットボトルのキャップを自分の家にするように、鳥がビニールの紐で自らの巣を作るように、どう批判されようとも、それが現実でそれが今のような気がする。


更新時間 : 20:51:50


1月21日 (火)


はる 620
 「風景の中の人物」F80 1984   作品を観る
 ホイックニーの写真のコラージュを見たことがある?彼のタブローっていうのか絵画作品もお洒落で楽しいのだけれど、写真がまたそれ以上に面白い。なるほど立体派の「多視点」とはこういうことだったのかと納得させられる。

 というのは一つの風景を(私が知っているのは竜安寺の石庭だったと思う)自由に動いて、自分が歩いて止まったところでシャッターを切る、その後アトリエでその写真をコラージュする。バラバラなんだけれど、確かにどこから見てもそれは、竜安寺なんだ。「見たこと、見えたこと」より「知っていること、経験したことを描く」という意味がよく分かる。

 でこの間のシャメールの話の時にふれたけれど、人間の記憶というのはこういったコラージュ作品と似ているのではないか、我々は気付かないでいるけれど、日常というのはこういったことの積み重ねでできているのじゃないかということだ。セザンヌから始まってピカソの立体派まではわりとスムースに理解できるのは、たぶんこんな人間の実体験とリンクしているからだと思う。

 でこの絵の話に戻れば、全く違う二つの絵をどうやれば違和感無くつなぐことができるか、ってことを真面目に試している。これも立体派の技法の延長上にあると思う。これがうまく描ければ後は何でも描けるようになる、その一歩手前の絵だ。

 
 


更新時間 : 15:01:00


1月20日 (月)


はる 619
 貴乃花が引退した。
 運動神経はほとんどないけれど、なぜか相撲だけは強かった。我々の子供の頃は、それこそ冬場は相撲ぐらいしか楽しみがなかったということかな。「巨人、大鵬、卵焼き」で育ったけれど、やっぱり先代貴乃花はカッコよかったし、若貴兄弟が入門してきた時はカッコよかったなぁ。サラブレッドというのか、血筋もそうだけど、カリスマ性があった。ただ強いだけではない何かがあったね。ただ最近はもうほとんど見ることも、聞くこともなかったね。
 これはこの間の話と全く食い違うけれど、相撲は世界化する必要はないと思う。相撲はスポーツじゃないのでしょうね。元々は神様に奉納する神事から始ったそうだから。ここだけの世界でいいのじゃないかな。相撲がやりたければ日本に来いで。

 今日は憂鬱だ、それじゃ。
 


更新時間 : 23:29:53


1月19日 (日)


はる 618
 今日は久し振りに裸婦クロッキーに出掛ける。11月12月と個展とぶつかって出席できない。二ヶ月ぶりに出ると初めてお目にかかる人も多く、なかなか賑わっていた。

 よく勘違いされるけれど、「デッサンは絵の基本だから、何年経っても練習されるんですね」と。反対すると面倒だから「そうですね」とそれ以上言わないのだけれど、簡単にいってしまえば、今自分が描いている絵と、このデッサンとはほとんど関係がない。デッサンがいくら上手くなってもただそれだけのことで、それ以上のことではない。確かに上手い方が色々と便利だけれど、かえって邪魔になることも多いのじゃないだろうか。(私は邪魔になるほど上手くないのでわからない)

 タピエスにしてもクレーにしても木村忠太にしても三岸節子にしても、そういった意味では特別デッサンの上手い作家だとは思わない。ましてアフリカの仮面を作った人や日本の古い猿楽の面の作者がデッサンが出来たとは思えない。反対に物を正確に写すことなど毛頭考えのなかになかっただろう。

 本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、散歩をしたり、月を見て感慨にふけったり、つまり日々楽しく生きて行く事のほうが大切なのではないかなぁ。そんな中で心に浮かんだ何かを表現していく、人が見たいのはその人のイメージなのだから。

 上手くまとまらなかったけれど、今日はここまで。
 


更新時間 : 21:12:30


1月18日 (土)


はる 617
 大リーグに松井選手が行ってしまった。特に日本のプロ野球のファンでもないのだけれど、他人事ながらこれから日本の野球はどうするのだろうなんて心配になってくる。明らかにあちらの野球が一番で他のところは全て二流だ、ということになれば実力のある力自慢たちは自然にあちらに渡ってしまうだろう。それが当然といえば当然だ。でも何か釈然としないものがある。なんだろうか?

 日本のお家芸といえば柔道だけれど、いつの間にかヨーロッパの方が強くなって、特に女子の柔道なんて世界チャンピオンが外国の女性だということが多い。負け惜しみかもしれないけれど、そうなって初めて柔道は世界に普及したということができるのではないか、いつまでたっても日本の柔道が世界でいつも一番じゃ可笑しいだろう。世界中に道場があって、何年かに一度世界大会がある、勝ったり負けたりしてこそ面白い。それでこそ楽しいのではないだろうか。

 アメリカの野球が規模も、お金も何もかも世界で一番で、他の何処の野球も二流、三流だ。野球やるならアメリカに来い、というのであれば、いつまでたっても世界のスポーツにはならないだろうし、かえって他の地域の野球を潰してしまうことになるのだろう。そこのところがどうして分からないのかなぁ。かの国は田舎ものだ。


更新時間 : 21:05:47


1月17日 (金)


はる 616
 人の究極的な願望というのは、健康でいられるならば、不老不死で永遠の命が欲しいということだろう。いやそれは退屈だという人もいるかと思うのだけど、まぁ聞いてくださいな。
 自分の子や孫が可愛いと思うことも、突き詰めれば自分の遺伝子がはいっているからで、考え方によればそれも形はちがうけれど、不老不死、永遠の循環する命を得た事になるのでしょう。自分の遺伝情報は四分の一には薄まるのだけれどね。
 生命の発生以来、連綿と続けられてきたこういったつながりに、最近ややかげりが見えてきた、というのもクローン人間の誕生もささやかれ始めたからだ。どう反対しょうと何が正義で悪かといった論議の外に、たぶんこのクローン人間というのはいるのだと思う。
 で昨日の話にもどるのだけれど、たとえば人間の知識とか体験、経験みたいなものが、記録としてどんどん自分の脳以外のものに蓄えられるとしたならば、これはクローン人間よりはるかに自分に近い、それこそ不老不死の(肉体)を得る事になるのではないか。今はまだそこまでの容量も技術もないけれど、いずれ(人の記憶の外付けハードディスク)なるものができるかもしれないね。
 今みんながやっているシャメールなるものも、そのための準備なんじゃないだろうか。
 ちょっと寒くなってきた。またあした。



更新時間 : 20:42:28


1月16日 (木)


はる 615
 電話が出来た時に、電線に伝言を結びつけたおじさんがいるという笑い話があったけれど、ケイタイはそれをはるかに凌駕する革命的な道具かもしれないね。
 新聞のCMを読んでいたら、個人的な情報のやり取りは(たとえば電話番号とかプロフィールとか写真とか)はケイタイ同士で瞬時にできるそうだ、無論電話をかけることなく。そうなってくると名刺の交換や個人的な情報の交換の風景は随分とかわってくるだろう。
 「やーやー今日は」とやって、「さて私はこういう者です」と、ケイタイを掲げてあいさつすることになる。で「実は今日はこういう事で、うかがいました」と又ケイタイで概略を説明することになる。
 実際この間面白い風景に出会った。クリスマスのイルミネーションだったかな、ぞろぞろ歩きながらみんなケイタイを掲げてシャメールしてるんだ、だれかに送ってるのか記録しているのだろう。その時にはっきり時代は変わったと思った。何を見ているのか、実際の風景を前にして、小さな液晶を一生懸命ながめている。何を記録しているのだろうか。

 今晩も寒そうだ、それじゃおやすみなさい。


更新時間 : 23:13:06


1月15日 (水)


はる 614
 「月がとっても青いから、遠回りして帰ろう・・」なんて歌があった。そんな歌がぴったりくるような月が出ていた。

 むかし、家にお風呂が無かった頃、子供どうしでよく銭湯にいった。その帰り道、今ではそんなところは見かけなくなったけれど、真っ暗なヤブや野ッパラがあった。昼間そんなに感じないのだけれど、暗い夜は怖かった。「幽霊の正体見たり、枯れおばな」

 たかだか後、十年か十五年だなぁなんて思う、どこまで行けるのだろうか。


更新時間 : 21:18:05


1月14日 (火)


はる 613
 「牧歌」1993 F130       作品を観る
 昨年末から個展モードにシフトして、それ以来個展の作品の途中経過などを晒してきた。一昨年のように全ての作品の一覧を晒そうかとも考えているけれど、少し迷っている。あまりにもあっけらかんとし過ぎるからだ。存在感も空間ももちろん雰囲気も何もかも吹き飛んで、ただのイラストレーションになってしまうからだ。まぁそれをいってしまえばこうやってネットに晒すこと自体が、違うということになるのだけれどね。どういったもんだろうか。
 さてこの作品はかなり大きなものだ。194cmX162cm 額を入れると2メータ近くなる。だから人物の顔は、実際の人間より大きい。それ故、近くで見ると何だか妙なものだ。
 この間、それに関して面白い話を聞いた。というのは、例えば魚の養殖などの場合、大きな生簀に入れれば大きくなるし、小さな入れ物の場合どうしても大きくならないそうだ。魚が考えてそうなった訳でもないのだろうから、大きなものを作りたいなぁと思ったら、器というのは必要不可欠だということだ。
 自分のアトリエが小さいので、大きい作品は少し無理があるなぁと思っていたらそんなことを聞いたので、よけいにがっかりした。
 作品の話じゃなくなってしまったね。ではまたそのうちに。




更新時間 : 22:23:38


1月13日 (月)


はる 612
 今日は成人の日らしい。振替休日というのは、何だかありがたみがなくて良くない。だって成人の日というのは1月15日と決まっていたし、その日にラグビーの「日本選手権」があると決まっていた。体育の日は10月10日で、なぜその日かと言えば「東京オリンピック」の開会式があった日なんだ。真っ青な空にジェット機が五輪のマークを書いた日なんだ。それが10月のそこらへんの日になちゃどうも心もとない。いいじゃないか無理やり休日をくっつけなくたって、ただでさえなんだか色んな事が不安定なんだから、「記念日」ぐらい固定しょうよね。

 最近は祝日を「旗日」なんて言わなくなった。「旗日」の意味も分からなくなっているのかもしれないね。またもや回顧にはしるけれど、祝日に旗を立てるのは我々子供の仕事だった。何処の家にもあの妙な「金の玉」と、「しましまの棒」があった。休日になるとなぜか、いそいそと旗を家の門のところに掲げた。不思議な事にどの家も子供が中学校に行き出す頃やめたようだ。ついでに神棚も消えた。

 どんな民族にも、成人の通過儀礼がある。「大人」になるということが何よりも楽しい、待ち遠しい、かっこいい、そんな社会でなければだれも大人なんかにゃなりたくないだろう。権利や義務をいくら持ち出しても、人は「正しい事」では動かない、大人が「かっこよく」「楽しく」「生き生きといきて」いれば、みんな早く大人に成りたいと思うものだ。年ばかり食って大人になりきれん私がいくら言っても説得力ないけれど。


更新時間 : 21:21:10


1月12日 (日)


はる 611
 冬場は朝8時前後に川沿いを散歩する。いつも大体同じ人に行き逢う。ここでしか会わない人たちなので、何処の誰かはもちろん何をしている人かも知らない。
 冬場は空気がすんでいるせいか、富士山から雪をかぶった南アルプス連峰、のこぎりのような八ヶ岳へと全て一望できる。ここに来てよかったなぁと思う数少ない一瞬かもしれない。寒いけれど。

 久し振りに午後、陽のあるうちに嫁と散歩した。日曜日ということもあって若者たちが、寒いなかテニスに興じていたり、トランペットの練習をしていたり、ジョギングしていたり、そんなのどかな風景を見てスーラーの「グランドジャット島の日曜日」を思い出した、あれはもっとあったかい季節だった気もするけれどね。
 子供の頃、いつも幸せだったわけではないのだけれど、こういった夕暮れの風景を見るといつも子供の頃を思い出す。そして幸せな気持ちになる。日暮れて色彩がモノクロームに還元されるからそういったイメージをうむのだろうか、よくわからない。

 それじゃまた、明日。

 


更新時間 : 23:45:23


1月11日 (土)


はる 610
 昨日書いた作家の名前がいい加減だということが判明した。アムンゼン・キーファーではなくて、アンゼルム・キーファーでしたお詫びして訂正します。

 個展ではいつもCDを流しっぱなしにしている。毎年どんな曲を選択するかこれがけっこう楽しみのひとつでもある。さて今年はどんな曲を選んだのでしょうか、個展風景を見ながら考えてみてください。正解は来た人だけのお楽しみということかな。疲れてくるといつも大体ピアノ曲をかける、だから夕方誰もいなくなるとビル・エバンスがかかっていたりする。会場効果という面ではまったく似合っていない、だからお客さんがくると楽屋裏を見られた気がして気まずい思いをする、たぶん私だけがそう思っているのだろうけれどね。

 搬出の時いつも使っているラジカセを落として壊してしまった。こういったものはなかなか買い換える時が難しい。いつもアトリエで音楽を流しているわけでもないので、今すぐに必要なわけでもないのだけれど、ないとなると欲しくなるのが人情だ。というわけで家電の量販店に出掛ける。つい最近までラジカセにCDプレイヤーが付いたものが主流だと思っていたのだけれど、今はMDだという。では全ての機能を付ければ、MD・CDラジオカセットプレイヤーということになる。なんじゃこりゃ、そのうちに喉が渇いた時のために冷蔵庫が付いて、腹が減ったときのために電子レンジがつく、ついでにお風呂も付けるか。
 結局必要なCDプレイヤーとFMラジオだけ付いている小さなプレイヤーを買った。難しくて選ぶのに三日かかった。


更新時間 : 21:31:15


1月10日 (金)


はる 609
 かなり前の映画だけれど、エディ・マーフィの「大逆転」という作品があった。いつものようにハリウッド映画特有のどたばた喜劇だけれど、なかなか現代の問題点をそれなりに言い当てていて面白かった。
 主人公の乞食のエディがひょんなことから、ニューヨークの有名な相場会社の社長(こういうのを何ていうのだろう、日本で言えば証券会社ということになるのかなぁ)に拾われ社長までまかされるようになる。なんだかんだあって又もとの乞食に戻されるのだが、そこからが面白い。元に戻されたエディ、人生をもてあそばれた腹いせに、今まで仕入れた知識を元に悪巧みをはたらく、オレンジの今年の作柄情報を上手く操作して、一晩で社長に返り咲き、相手の社長は一文なしになるという話だった。
 リンクさせてもらっている「まれびと」さんの「エンデの遺言」を読んでこの話を思い出した。お金には二種類あるという話、なるほどなぁと思った。我々が普段なにげなく使っている「お金」とたとえばここでいう相場でいったり来たりする「お金」は全く違うものだということだ。数字上は100は100だけれど、日常の100円と数字の100とは違うものなんだ。
 デジタル時計とアナログ時計との違いに似ているかな。一時間の遅れはアナログの場合、長針を一周しなければカバーできない。けれどデジタルの場合、一つの操作で済む。同じ一時間なのにね。
 我々日本人は未だにここの区別がついていないのかもしれないね。バブルの時やたら浮かれたのはこの数字の泡に踊らされた、どこかの国にしてやられたのも結局はこの数字の数なんだ。ところが怖いのはこの数字は実際の世界とリンクしていることなんだなぁ。

 何年か前に現代美術の巨匠 アムンゼン・キーファーのコレクションがあふれるほどの金額のかたに日本にあるときいた。何とか見たいなぁと思っていたら何故か持ち主がバブルのつけで破産、アメリカかどこかに売られていく前に、少なくとも何日かは見せてあげようというお情けで見せてもらったことがあった。
 元来農耕民族でこつこつ勤勉に働く事を是としていた人々に、バクチ経済の数字の怖さは理解できなかったということだ。キーファーの作品を拝む事ができたのがせめてもの慰めだった。

 まれびとさんのHP http://www.geocities.jp/marebit/
 


更新時間 : 19:24:38


1月9日 (木)


はる 608
 なぜか急に「麒麟」を描こうかと思った。これが又なかなか一筋縄ではいかないほど複雑怪奇な動物だった。ネットで調べたらほとんど「麒麟麦酒」のことしか検索で引っかかってこないのでがっかり、違う方向から検索色々と勉強になった。またそのうちに薀蓄をたれましょう。
 一つだけ言えばどうやら西欧の「ユニコーン」ともリンクしていて幻の獣ということで、東西でありがたがっているということだ。まぁ一概にはいえないのだけれど、羊のところで感じたと同じ不思議を感じた。どんなもんだろうか、絵になればいいのだけれど。
 
 さて今日はこんところで、また明日。


更新時間 : 21:08:59


1月8日 (水)


はる 607 
 こんばんは。
 二日ほど前から仕事はじめ。130号のでかい画面に何を描こうかシアンクレール。これからしばらくは人との競争のために絵を描く。個展モードから競争モードにシフトしなければならない。出す以上は上を狙いたいものなぁ、人のサガとして。
 今年は7月に神戸で個展、それから11月、12月といつもの展覧会が予定されている。年三回が限界かなぁ、出来ればもう一箇所やりたい。どこかいいところないかな。
 あと今年の夢としては大きな倉庫というのかアトリエが欲しい。何とか田舎にぼろやを見つけたい。
 色々希望はあるけれど、今日のところはここまで。


更新時間 : 23:02:51


1月7日 (火)


はる 606
 子供の頃、年寄りというのは不思議な存在だと、いつも思っていた。彼らに子供の頃があったとは信じられないし、人には寿命があるなんてことも考えられなかった。我々が生まれてからずうと子供の役をやっているように、彼らは生まれた時から年寄りの役をやっているのではないかと思っていた。なぜならすごく自然に年寄りをやってるからだ。
 年をとれば誰もが分別臭くなって、悟りの境地に達してさも当たり前のように死と向かい合いジタバタせずにカッコよく死んでいくものだと、つい最近まで真剣に信じていた。
 いつも行く画材店によく来るバーサンがいて、前々から聴いてみたいと思ってた疑問をぶつけてみた。「年取ると死ぬのが怖くなくなるのですか?」「いいや、怖いさ」
 
 誰もが子供の頃の経験があり若者の経験もある、ただ唯一年寄りの経験はそのときがこなければ分からない、そのことに今気付いた。失う事、出来なくなる事をカウントする生き方はしたくないと思う、なぜならそうならば命が尽きる事が一番悲しい出来事になっていまうからだ。やらなくてはならないことが少なくなった、最後には真っ白になって、息する事さえもしなくても良くなったと考えたい。どう思う?


更新時間 : 21:32:43


1月6日 (月)


はる 605
 家の近くに良く流行っているスーパーがある。一昔前のスーパーマーケットといえば1円でも安く、多少の難があっても安ければ流行った。ところがこのお店は少し変わっていて、まず入ってすぐのところにピアノがあり自動演奏している。色んなところに花が生けてあったり、とにかく天井が高く空間が他のスーパーのようにせせこましくなくゆったりとしている。だからといって百貨店のデパートのように店員がただの売り子さんでもない。魚屋のおじさんも長靴はいてネクタイしてせっせと働いている、そこのところがなかなかスマートで気持ちが良い。とにかくどうすればお客さんが気持ちよく買い物できるかそのことを良く考えている、それ故他のお店より若干高くても今の客はこちらを選ぶのだ。
 お店のレイアウトを見ればだいたいその店のオーナーの狙っているところがわかる。流行っていないお店にはそういったコンセプトがないか、考えてもいない。長い間の習慣で何も考えずに商いをやってきた多くの商店街は、今とんでもないことになっている。たぶんこういった流れを読むことが出来なかったか、考えもしなかったためだろう。
 少し前から我々は「便利である」とか「少し安い」といったものさしより「うつくしい」とか「きもちがいい」といった、少なからずより高い次元のものさしを使うようになってきたように思う。ただこの数量は個人的なもので測ることがとても難しいという難点があるのだけれど。
 ハングリーから立ち上がるコンセプトは簡単だ。すべからく「食えるようになれ」だからだ。多くの場合ここまでで終わってしまう。食べられるようになった時点でクリアーしてしまうからだ。「ハングリー」に代わるコンセプトはなかなか難しい。あえて言えば「うつくしい」だと思う、間違っているかもしれんよ。

 絵や彫刻などの美術品や骨董品はたとえば美術館や高尚なギャラリーで鑑賞するのが当然のように思っているかもしれないけれど、本来は日常生活の中でそれらを掛けたり飾ったり使ったりしてこそはじめて生きて楽しいものではないだろうか。

 我々はここにきてはじめて新しいものさしの必要性に気付いた。楽天的に言うならば「日々好日」「楽しく生きようぜ」ってことか。
 


更新時間 : 21:05:41


1月5日 (日)


はる 604
 博打は昔から弱かった。兄弟の多い家族なら分かってもらえるかもしれないけれど、小さい頃必ず兄弟で「賭け事」にはまる時がある。我々の頃は「べったん」=関東ではメンコ、ビーダマだった。他流試合ならまだよかったのだけれど(私が小さすぎて他流試合までいかなかったということ)兄弟で熾烈な争いがあった。
 マージャンなんかもそうだけれど、博打には才能がいる。どこまで我慢できるか、諦めないか、そして最後は引きだ。子供ながら賭け事は熱くなると負けてくる、負けが込むと一気に負けを取り替えそうとさらに大きな博打をする。段々に額が大きくなっていくのだけれど、不思議と麻痺してくるのだ。最初は十や二十が大きな数だとおもっていたのが、千や二千が当たり前になってくるとまるで数には見えなくなってくるから恐ろしい。そして破産する。

 100円の物を110円くらいで売って、後はできるだけ真面目に体張ってたくさんの量こなして何とかしのいできたのが戦後の日本だった。それなりの技術もあって世界中から認められていた。ところがそんなとろい稼ぎじゃなくて、100円の物を200円、1000円になるのを待って売るそんな商売をやる奴が出てきた。10円20円稼いでいた町工場の親父がもの作りを放ったらかしてパソコン買って投機に走った、それが博打だとも知らないで。世界の投資家(博打や)はこれを待ってましたとばかりに取り込んだ、後はご存知の通り、すっからかんになった日本の姿があったというわけだ。

 ここまでは良く言われることだ、それならば今から我々はどうすればいいのかということだ。そのことを教えてくれる人はいない。少し考えてみたいと思う。



更新時間 : 20:13:12


1月4日 (土)


はる 603
 夜になって凄い風が吹いていた。とにかくこの地方にやって来て一番驚いたのが夏の夕立と冬の空風。明日の朝は寒そうだ。それじゃまた明日。
 う~~さむ。
 


更新時間 : 22:05:42


1月3日 (金)


はる 602
 風呂場の電灯が切れた。電球を交換することはなんでもないことなんだけれど、どうやら長い間にカバーのゴムパッキンと金具が一体化してしまったようだ。思いっきり力をいれてひねったら天井に大きな穴があきそうだ。困った。

 この町は戦国時代の有名な武将がひらいた町だ。それ故駅のすぐ近くに城跡があり、このところこの城壁を修理している。お上の基本的な考え方として、この城跡を核にして城下町風な観光都市を考えているらしい。確かにそれは理にかなった計画に思える。けれどそれでどの程度の観光客が呼べるのだろうか。私が考える町づくりというのは、基本的にその町に住む人たちのもので、その町に住む人が楽しくなければ、お客さんも楽しくないだろう。
 結局言いたい事は我々はいつのまにか日常の「住む」ということを考えない生活をしているのではないかということだ。きれいな風景や街並みを見たときに「わぁ日本じゃないみたい!」と思わずいっていまう、そんな日常を暮らしていることが何かおかしい。

 風呂場の電球が切れたら、交換すればすむことだけれど、生き方の間違いはすぐには交換できない。
 
 


更新時間 : 21:51:08


1月2日 (木)


はる 601
 いつもはテレビもあまり観ないのだけでど、大晦日からお正月はコタツに入ってつぎつぎとバカテレビを観ている。バカテレビの表番組はもう何年も前からそう変わらないのだけれど、一番変化があって面白くて目を引くのはCMだ。
 消費者金融と車とパソコン関係のCMが多いし面白い。昔日本人は欲しいものがあった場合、しばらく我慢してお金を貯めてから買ったものだ。気分として「借金は親の敵」ぐらいの気持ちがあった。それがどうしたことか、最近は欲しい物は借金してでも買って後からお金を払うというかたちに変わってきた。クレジットとかキャッシングとかリボルリング払いとかいってるっけれど、「借金」にかわりはないのだ。
 あれだけ頻繁に繰り返して見せ付けられれば「借金」するのが当たり前で、カッコいいかのように勘違いするのはしかたないだろうなぁ。実際に新規の契約者の半分以上が20代だそうだ、これは少し考えなければならんのじゃないかなぁ。偉そうなことは言えんけど。
 
 午後から初詣に出掛ける。何だか意味も分からず初詣だけはガキの頃から行っていた。ガキの頃は単にお祭り気分を味わうために人が集まる場所に出掛けていたに過ぎないのだけれど、思春期になって諸々な願い事が自分の力ではどうしょうもなくなって「神だのみ」の祈願をする。最近は何かあるたびによくお参りに出掛ける、気休め、思い過ごし、そんなことは百も承知、何か生かされている自分を確認するだけのために行く。それもよし。


更新時間 : 15:21:39


1月1日 (水)


はる 600
 新年明けましておめでとうございます。それではまた後で。


更新時間 : 18:34:25

    過去の作品コメント
1984 「風景の中の人物(丘)」F80
1988 「海と六角堂」F80
1993 「牧歌」F130
1997 「こたえてください1」S100
1999 「みちをきく1」S100

        2003 1月

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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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