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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

2001-9 - 2001.09.01(日記)
絵描きのぼやき

2001年9月
9月29日 (土)


はる 207
 実はもう30日になっている。何となく今書いておかないと明日も書かない気がして筆を取った。こういうものは習慣だからね。しかし私は疲れています。いつになく「有為の人」みたい、はははは。
 「有為の人」と言えば、何年か前の個展で、画廊の人から題名をFAXしてくれというので送ったのだけど、その中の一つに「ようなきひと」(用無き人)というタイトルを「陽気な人」と間違えて書いてあり、個展が終わるまで気が付かなく、後で大笑いしたことがあった。自画像のつもりだったので「そうか、それもいいなぁ」と思った。
 「こもりく」有元利夫さんの絵にこんなタイトルの絵がある。(神のこもる国)という意味だそうだ。昨日出雲大社の話をテレビでやっていた。確かにあそこのあたりは「こもりく」なんだと思う。まだ一度も行ったことがない。10月は他の地方は「神無月」、しかし神様の集まる、出雲の国は「神有月」と言うそうだ。いとおかし。


更新時間 : 00:34:18


9月28日 (金)


はる 206
 芸術の秋のせいか、忙しいです。
 まず絵描きとして展覧会をやってます。暇をみつけて顔を出さねばグループのみんなに申し訳ない。でも、いくら私ががんばっても、世捨て人には負ける。私はまだまだ修行が足りない。ご老人たちはいつ行ってもがん首揃えて迎えてくれる。ありがたい。
 地域の文化祭がある。なんせこの地域は名だたる高齢地。最初に文化部の部会を開いた時に、若い人(私はもうすぐ50だ)は私しかいなかった。それゆえ当然私に部長の席がまわってきて、断ることができなかった。ちなみに私が絵を描いていると知ってる人はいない。盆栽や手芸と一緒に何を出品すればいいのか。断ればよかったのかなぁ。
 明日からこの地方の団体の「裸婦講習会」がある。今日はその準備で午後から美術館へ。椅子を運んだり、イーゼルを用意したり奉公仕事。夕方モデルさんを駅まで迎えに行く。いつもなら10分で着く距離なのだが、なぜか込みまくり、あせったが無事会うことができた。食事をして無事ホテルまで送りとどける。明日から2日間よろしくお願いします。
 ところで今日朝6:30頃電話で起こされる。実は近所で葬式がでる。まともに出れば田舎の葬儀はとても大変なのだ。でも今回は上記の事情のためお許しを願った。すんません。


更新時間 : 23:11:42


9月26日 (水)


はる 205
 「てんはみずからたすくるものをたすく」
 私はどんな信仰も持っていないし、たぶんこれからも信仰することは無いと思う。けれど聖書やその他の経典には多少なりとも興味がある。人類の大いなる知恵がその中に隠されているからだ。
 どこで聞いたのか、なるほどなぁと思ったおぼえがある。学校を卒業して、一年ほど埼玉のある中学校に勤めた。何の経験もなく突然担任を持たされて、右往左往した。もともと教師にはむいてなかったのだと思う。悩んだ末思い切って辞表を出した。自分が思っていたほど、引き止められることもなく、すんなりと止めてしまった。(人知れずけっこう傷ついた)自己嫌悪。普通の生活をする唯一のチャンスを自ら捨ててしまった。「あーこれからどうするかなぁ」と思った時にこの言葉を知った。「絵を描いて、生きていけたら描いてもいいということだろう」ちょっと複雑だけれど、そういうことで居直った。
 むろん今まで、絵だけで食べて来たわけではないのだけれど、幸せなことに何とか今日まで生きている。たぶんこれからもこうやって生きていくのだろうな。


更新時間 : 17:34:44


9月25日 (火)


はる 204
 昨日は一日家に居た。「小人閑居して不善をなす」この言葉は私のことを言ってるのじゃないか、といつも思っていた。
 いまでこそ昼間からぷらぷらしていても,あつかましくも良心に恥じることはなくなったけれど、若い頃はけっこう人目を気にした。誰も人の事など気にしていないのに、見られている気がして、とても気になった。やがて慣れて気にならなくなっけれど、けっこう面の皮も厚くなったのでしょうか。
 今年の個展のサブテーマを「みみをすます」にしょうかと考えている。これは今回のテロ事件がある前から考えていたことなんだけれど、私のやっている表現活動はけっして強いものじゃない、聞く耳を持たない人間には何も聞こえないだろう。意味もないかもしれない。でも本当に必要な人には充分に届くものなんだ。そこが押し付けがましいプロパガンバと本質的に違うところだ。人に聞いてもらいたいならば、大声でがなりたててはだめなんだ、小さな声でささやくように、相手に聞き耳をたたせる事が大切なんだと思う。
 どれだけの人が聴いてくれるのだろうか。
 
 


更新時間 : 20:54:02


9月23日 (日)


はる 203
 普通の文章ならかなり青くさい、恥ずかしいことも平気でかけるけれど、詩みたいなものは(昨日のは詩か?)妙に恥ずかしいものだなぁ。今読むと消してしまいたい衝動にかられるけれど、「同じ恥ならかかなきゃそんそん」てなもんで、かろうじて思いとどまっている。明日はないかも。
 昨日はグループ展のオープニング。普通ならわいわいと客人がきて大騒ぎなんだろうけれど、もうお年寄りの集まりなので、はしゃぐこともなくしめやかに、滞りなく行われた。
 糸井重里さんのメールマガジンに「芸術(絵画)は必要か」いうテーマで芸大で講演した時のことが書かれていた。私達にとってけっこう大きな問題だよなぁ。たとえば今でも多くの芸術系の大学や専門学校があって、毎年多くの若者が卒業していく。けれどそれで食べていける人はごく一部で、ほとんどの人が何かしら他の仕事に変わらざるをえない。糸井さんは「必要ないといって止められる人はやめた方がいい」と放り出したようにかいていたけれど、親心みたいなもので、私も同感だ。
 はっきりいって芸術家なんて職業はない。ごく一部の人しかそのことで食べてはいけない。考えてみればすぐに分かるけれど、今どの家庭でも絵画など飾ってないものなぁ。需要そのものがないのだ。だから描かなくても済むならその方が生きやすいよという親心だ。よくわかる。
 でも私はこうも思う。芸術家というのはその生き方をいうのだと。今生きて感じたことを何らかのかたちで表現して、同時代の人々に共感してもらう、そのことで幾ばくかの収入を得る。芸術家にとって収入とは、行者のお布施みたいなもんじゃないかと思ってる。それがいやだというなら止めたほうがいいのじゃないかな。どう思う?



更新時間 : 13:36:25


9月22日 (土)


はる 202
  声が大きい方が正しいのか、
 みんなの言うことが本当なのか。
  力の強い者が正義なのか、
 富んだ者が勝ちなのか。
  いつの時代も臆病者は嫌われる。
  本当のことが次第に見えなくなって、
 威勢のいい演説や団結をあおる歌に感動する。

 「みみをすませ!」
  今こそ弱き者の声なき声をきけ。
  じっと静かに息を潜ませて、
 風の音や木々のざわめきをきけ。
   
 昔、聞こえないものを聞いたり、見えないものを見たりできる人を、神様のお使いと考えた。「臣」という字は「目」の象形、右に90度回転するとよくわかる。それに指をつっこんでわざと見えなくしたのが「賢」。「かしこい」とはそういう事らしい。
 今こそ見えないものを見たり、聞こえないものを聞く時じゃないのかなぁ。
 
 
 


更新時間 : 20:40:40


9月21日 (金)


はる 201
 暇で貧乏な無名の絵描きのはずなのに、なんだかこのところ忙しい。社会全体が老齢化していて、いろんな所で若い人がいなくて、我々のような若年寄が若手として働かなくてはならなくなってきたためか。断れない性格がそれにもましてわざわいしているのかなぁ。
 今日は朝から活動的に動いた。明日からのグループ展の搬入が今日の夕方からある予定。しかし午後から雨ということで午前中に作品だけ搬入を済ます。わたしの車は普通の車より多少大きいけれど、乗用車の天井に130号と100号を乗せると、亀がひっくり返ったような姿になる。ちなみに私の作品は人の3倍は重い。やっとこさ荷造りをしてとろとろと走り出す。めざす画廊まで1キロぐらいかなぁ。間の悪いことに車の往来の多いスーパーの前でパトカーとすれ違う。多少のはみ出しは大目に見て下さい!、と心の中でささやく。顔は今一番の悪者ラビンに多少似ているらしいが・・・。なにごともなく画廊着。
 午後はいつも企画展の時だけ顔を出すギャラリーに行く。今回は若い女性の作家でオブジェかなあれは、自分の顔を石膏取りして使った作品、けっこう不気味。私好みではないけれど刺激的ではある。オーナーはいつも面白い作家を発掘してくる。これからもいい企画を待ってます。
 夕方から飾り付け。わいわいとけっこう楽しい。初めてのメンバーだけれど、ほとんどが知り合いなので気兼ねすることもない。明日からオープンです。よろしく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      「具象の仕掛け」展
    GALLERY the GALAXY
        2001.9/22~10/7 
        電話 055-227-3787
 




 


更新時間 : 20:34:20


9月20日 (木)


はる 200
 おー記念すべき200号になった。これほど書き続けられるとは思ってもみなかった。最初はもっとルーズに適当に書くつもりだったのだけれど、書き始めてみるとけっこう続くもんだね。面白いかどうかは別にして。これからもルーズに適当に書き流していくつもりです、読者のみなさまも適当にお付き合い、お願いします。
 
 昨日はこの春から描きためている作品の写真をとる。実は二日ほど前にも撮ったのだが、光の状態が悪く気に入ったように撮れなかったのでやり直すことにした。
 写真は難しい。多くの条件で同じものが全く違ったように撮られてしまう。反対にいえばどんなもんでも写真の撮り方で良くも悪くもなるということだろう。うぬぼれかもしれないがいつも写真にはがっかりする。「実物はもっといいのになぁ・・」だれでもそう思うか。
 今年の個展のサブテーマを考える。こんな時期だし、みんなが元気になる、ぴたっとくるいいコピーがないだろうか。もちろんこの作品たちの気持ちでもあるわけだけれど。作品のタイトルもそうだけれど、個展のテーマが決まるといよいよという気になる。人に訴える力も強くなる気がする。


更新時間 : 20:09:15


9月19日 (水)


はる199
 藤原新也さんのホームページがある。彼のように文章を書くことを生業としている者が、こういったミニコミ的な収入にならないようなメディアに意見を発表するのはけっこう革新的だと思う。今回のテロについて彼の意見はとても面白い。世界を見てきた人にしか書けない文章だと思います。後でURLをのせておきますので暇な人は見てください。
 モンスーン気候の温暖な恵まれた自然環境に住んでいる我々には基本的に理解できない事が多いと思う。何も好きこのんで氷に囲まれた厳しい環境に住まなくてもとか、見渡しても草一本生えていない砂漠に住まなくてもとか、お節介なことを考える。しかし世界は多種多様だ(だから面白いのだけれど)。私が知らない事の方が多いのだろう。一方的な見方だけでは見落としてしまうことも多いと思う。
 壁に向かって3年も4年もじっとしていられるのは自然環境が生物に対して限りなく優しいからだ。砂漠の民であれば3日でミイラになってしまうだろう。絶対に正しいことなんていうのはどこにもない。物事は全て相対的だと我々は考える。全てが曖昧で決定的なことを言わない。それを善とする。
 欧米型の価値判断では有るか無いかの二者択一で全てが論理的に成り立っているように見える。自分達が正義だから相手は絶対に悪と決めつける。大統領の演説を聴いていても民衆を焚きつけるアジテーションばかりが目に付く。少し冷静に人の意見を聞く余裕が感じられない。そんなに単純でいいのかなぁ。
藤原新也HP
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.html



更新時間 : 22:06:38


9月17日 (月)


はる 198
 昨日のNHK特集「狂牛病」の話。とても怖くなった。病気そのものも怖いけれど、それ以上に恐ろしいのは人間だ。伝染するのが分かっていながら自国で禁止されると、平気な顔で他国に輸出出来るその悪魔のような心だ。
 元々の原因は牛たちに食用にならないくず肉を加工して飼料として与えたことから始まった。飼料といえば聞こえがいいけれど、はっきりいえば「共食い」なのだ。牛が牛を食う図を想像してみると分かるけれど、どこか異常だとは思わないか。安い便利は経済界の常識だけれど、世界がどうひっくり返っても草食の牛は肉を食らわない、まして自らの仲間の牛肉など食わないのだ。人はとんでもないことをやってると早くに気付くべきだった。
 心情的にも変だけれど、近い血のものが結婚できなかったり、共食いを避ける一種のタブーにも理由があって、普通ならさけられる遺伝子の異常や病原菌の異常繁殖が、そのことによって相乗効果で蔓延して、その種が絶滅しないように自然の掟としてタブーが存在していたのだけれど、人は「経済優先主義」のために、いとも簡単にそれを破ってしまった。
 「掟」「タブー」の存在しない民族などない。いつしか「神」の領域まで侵してしまった我々は行き着くとこまでいくのだろうか?


更新時間 : 21:18:35


9月16日 (日)


はる 197
 五月の末あたりからぼちぼちと小品を描き始めて、もう九月のなかばを過ぎてしまった。アトリエの壁には小さな作品が所狭しとぶらさがっている。いったい何屋さんかわからないこんな状態もけっこう気に入ってる。今年の個展のサブテーマは何にしょうか?DMの写真はどれにしょうか?などなどそれなりの演出を考えるのも楽しみの一つだ。いったいどれだけの人が来てくれるのだろうか、評判はどうだろうか、そんなところが気に掛かる。もちろん売れるかどうかもね。
 さて今日は朝から久し振りに裸婦のクロッキー会に出掛ける。このところ例の事件があって何となく気が滅入っていたので、あまり気が進まなかったけれど半分強制的に家をでる。途中昼飯をはさんで午後5時までビッシリ集中していい汗かいたという感じ。やっぱり人物を描くのは面白い。いっこうにうまくはならないけれど、飽きることもない。
 帰りに近くの本屋さんへ、女性誌が面白い。とにかくグラビアが美しい。ほとんど男性誌は読まない。おれは男おばさんか!世の中和風ばやり、ついこの間まで南フランスやイタリアものが多かったのだが、何と変わり身のはやいことか。その中で唯一面白そうな男性誌発見、アフリカンアートなどのエスニックアートの特集をみつけて購入。次のターゲットはここいらあたりかな?
 


更新時間 : 23:47:28


9月15日 (土)


はる 196
 少し前のテレビの討論番組で若者が「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった質問を大人たちに問い掛けて、そのことに納得できる答えを用意できる大人がいなかった。「当然だ」とか「常識だ」というのは答えにならない。その常識そのものを疑い聞いているのだから。
 生まれた時からある宗教があって「人を殺すなかれ」「殺生するな」「ばちが当たる」と教えられていたのであれば疑うこともなかっただろうけれど。悲しいことに我々は戦後の繁栄と引き換えに素朴な宗教も失ってしまった。
 あらゆる宗教は死後の世界を説いている。現世の「善行」がその後の行き先を決めるというのも古今東西よく似ている。なぜか?それだけ「死」というものが怖かったからだろう。大富豪も乞食もこの世の栄華をどれだけきわめてもやがていずれその時が来る。そしてだれも帰ってきたものはいない。それが恐ろしくて怖くて多くの宗教ができた。そればかりではないけれど。
 少し前「我々の世代は何か大切なものが抜けている。あったものが無くなったのなら探しもできるが、最初からごっそり抜けていたので、その喪失感もない」という話を書いた。その失ったものの一つに「死ぬことの怖さ」があるのじゃないか。自らの死が怖ければ人の命も大切だというのが理解できるのではないだろうか。
 失笑覚悟であえて言おう。アメリカの報復攻撃には反対だ。


更新時間 : 17:42:10


9月14日 (金)


はる 195
 カチッと一つ時代が動いた。これは空耳ではない。
 
 歌舞伎町の災害ビル管理者や大蔵省の使い込み役人、変態先生も今回のこの大事件で全てが吹き飛んでしまって助かったと思っていることでしょう。本質は何も変わってはいないのだけれどね。
 テレビ画面で何回も見せられるあの映像は、あまりにも良く出来過ぎていて、実は現実にはなかったことでよく仕組まれた新手のテレビドラマではないのかと思ってしまう。
 ともあれ、あれが現実というものかもしれない。実にあっさりと軽々と一種のタブーを越えてしまった。西側のよく言われる言葉「人命はなによりも重い」だとか「人質を盾に使うのは卑怯」だとか、「戦争にもルールがあるのだ」とかいわれるけれど、いったい誰がそれを決めたのだと言わんばかり。「先手必勝」先制攻撃が一番効力があることはこの世界では常識だろう。しかし現実はなんと重いのだろう。酔ったようにむなくそが悪い。
 アメリカ型の物質文明(多かれ少なかれ日本も、私もそうだけれど)に批判的ではあったけれど、西側の富と力で築いた論理はそう簡単には崩れないだろうし、たぶん21世紀もこの論理がまかり通っていくのだろうという予測のもとに、少数派として批判していたのであって、あれほどいとも簡単に崩れてしまっては元もこもない。
 何か大きな時代の変化の匂いがする。我々表現者も何らかの声をあげなければ!


更新時間 : 16:25:59


9月13日 (木)


はる 194
 何事においてもバランス感覚というのが大切だと思うのだ。あれほどの映画でしかありえないような圧倒的な暴力を見せられると、何を言っても無駄で、多くの意見はある一点に向かって一直線にどっどと進んでいるように思えるのだけれど、その結果もっとも恐ろしい結末になるのではないかと杞憂する。
 今こそ冷静になって色々な意見、特に少数派の意見を聞いて参考にすることは無駄ではない気がする。もしそうでなければ人類は歴史から何も学んでこなかったということになりはしないか。今私がここで何を言ってもほとんど何のたしにもならないとは思うのだがね。
 今ここで「人類の理想」をいってもほとんどだれも耳を傾けないだろうけれど、だからこそあえて言おう。50年前に同じように狂信的な思想の元アメリカに向かって宣戦布告し、最後には勝つ見込みもない泥沼の戦いの中ずるずると敗戦を迎えていった一人の国民として。その結果、焼け跡のぼろぼろの気持ちの中から「もう二度と戦争はいやだ」という思いが「戦争放棄」という誠に非現実的なそして感動的に美しい平和憲法をつくった。当時の国民の切なる願いがこの憲法には込められている。
 冷静に考えてみればすぐに分かることだけれど、日米安全保障条約を結んでいるということは、反対に日本が某国に侵略された時アメリカがだまちゃあいないよという条約で、今回のような場合当然日本はアメリカに援助、支援、又は実際に軍事行動を取らざるを得ないということだ。湾岸戦争のときは日本はバブリーで、お金が腐るほどあったので、札びらで我慢してもらったけれど、今回はどうするのだろうか。
 ついついペシミストの本領で本当のことを書いてしまうのだけれど、たとえばここでアメリカが報復攻撃をしたとする、犯人がだれだとはわかってないのだけれど、たとえば今言われている砂漠の民だとすると、前にも書いたけれど彼らの平和の概念はモンスーンの我々農耕民族には理解しがたいもにのがあって、「やられたらやりかえせ」「目には目を」というのが彼らの心情、信念だ。そのままやられっぱなしで終わるとは思えない。彼らは必ず報復してくるだろう。
 今回の戦争(もう戦争だろう!)は持てる者と持てない者との戦いだ。イスラム主義と資本主義の戦いだ。持たないものの戦い方はゲリラしかなく、今回もそうだったけれどナイフ一本で高度なハイテク兵器に勝てることを証明した。そう考えると彼らの次の標的は原子炉とか生物兵器になるにきまっている。そう私が一番心配している最終的な終末が来てしまうだろうということだ。
 我々が今出来ることは、とても青臭くて50前のおっさんが口にできることではないけれど言っていまう。人類で初めて戦争放棄をうたった平和憲法を持つ国民としてなんとか戦わずしてすませる方法を声高らかに唄うことじゃないか!あ~恥ずかし。


更新時間 : 17:04:45


9月12日 (水)


はる 193
 少しこのページをさぼっている間に世界では凄まじいことがおきていた。
 昨日台風一過の美しい夕焼けを見て、ルネサンスの頃の絵画は理想を描いたのではなく、案外リアルに現実を描いたのだということを実感して幸せな気分にひたっていた。
 夜になってネットでメールの確認をしていると、電話で「大変なことが起きた、ペンタゴンが攻撃された」と連絡が入った。急いでテレビをつける。ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が飛びこむ映像を繰り返し放映していた。一時間後そのビルが轟音とともに崩れ去った。こういった映像はハリウッド映画で何回も見ているので現実感がない。
 昔ラジオがまだ一般的な報道手段だった頃。ドラマとして宇宙から地球外生物が攻撃してきたというデマを流して大きな問題になったことがあったけれど、時々刻々流されるこの映像が現実のものとは思えなかった。
 心配なのはこのことがきっかけとなって意識が内向きになり、国粋主義的な風潮が濃厚になることだ。いつの時代も全体主義の足音は知らないうちにじわじわとやってくる。正義の名のもとに少数派が弾圧され、聖戦という名の殺人が行われる。第三次世界大戦のきっかけにならなければいいと思うのだが。


更新時間 : 12:41:56


9月9日 (日)


はる 192
 子供の頃、自分は絶対死なないと思っていた。たとえ今ここに爆弾が落ちてきても、自分の周りには見えないバリアーがあって風一つ吹かず、その地獄のような惨劇と全く関係なく過ごせるものと思っていた。
 車を運転していて危ないなぁと思うのは、ガキは自分は死なないと思ってることだ。突然車の前に飛び出してきて「カメンライダーキック」なんてやられると、自分の子供時代を棚に上げて「あんたからだ大事にしいや」と真剣にお願いしたくなる。
 昨日の新聞の片隅にこんな記事があった。「戦争で死ぬのは映画のように敵と遭遇してドンドンパチパチやって名誉の戦死みたいなかっこいいものは少なくて、実際は蚊ににさされてマラリアになって死ぬとか、軍隊生活に適応できなくて精神的に衰弱して死に至るとか、病気になるとかの方が多い」と書かれていた。けっこうカッコ悪いものだ。
 新宿の歌舞伎町で災難に会われた方もまさか自分がそんな目にあうとは夢にも思っていなかっただろう。(ご冥福をお祈りします)でも実際「死」というものは劇的でもなく、カッコよくもなく実にさらっと訪れるものだ。
 だからどうした。よく分かりませんが、今日一日精一杯生きろということか!


更新時間 : 10:37:34


9月8日 (土)


はる 191
 今日は一日台風の影響でなんとなくぐずついた天気だ。そんなこともあってほとんどアトリエから出ることもない静かな一日だった。だからといって誤解しないでほしい、一日絵ばかりを描いているわけではない。多くの場合ボーッと無為に過ぎていくことが多い。そんな訳できょうはお終いです。
 
 
 


更新時間 : 00:34:51


9月7日 (金)


はる 190
 「さぁゲームの始まりです」ではじまる例の少年が出てきた時にはビックリした。その後つぎつぎと似たような事件が起き、その行動パターンの類似性が取り立たされた。
 その原因がいろいろ言われるけれど、決定的なものはまだもちろんない。全く個人的な性格、性癖なのか、それならばある程度納得のいく考え方もできるのだが、その後の17歳(彼らは例の少年と同い年になる)の類似の事件をみるとこの世代に共通の何か、大いなる何かがあるきがする。
 ここまでは多くのマスコミなどで取り上げられたことだ。ここからは私考察になる。はっきり言って彼らの親の世代は私と同じ世代ということで、とても他人事のようには思えない。前にもかいたけれど、私達の世代は何かが抜けている。抜けている人間には抜けている意識がない。ここが問題だ。有った物がなくなったのであれば探しもできるし、その喪失感もわかるだろう。しかし我々にはそのことすら感じないように見事にごっそりとなくなっていたのだ。
 考えてみると誰もそのことに触れなかった。勘のいい人はうすうす感じていたようだけれど。実は我々の親の世代が徹底的に壊してきたもの、それは何というのか「にほんのかたち」みたいなものじゃないかと思うのだけれど。どう思う?


更新時間 : 19:12:01


9月6日 (木)


はる 189
 昨日は一日パートタイムの仕事にでる。もう20年ほど週二日近くの高校の定時制で美術を教える。彼らにとって美術はいったい何なんだろう。高度な学歴社会で「受験勉強」が出来なかったり、何かの事情で学校にいけなくなった子供たちが最後の受け皿として、この学校に来る。多かれ少なかれ彼らは深く傷ついている。それに気がついてさえいない子も多いのだが。
 入学式が終わって初めて私と会うとき、彼らは精一杯の虚勢をはる。今まで多くの場合そんな戦いに敗れてきた彼だから、よけいに最初が肝心だと肌で感じているのだろう。若い頃そういった彼らと同じ線上にいることが怖いなぁと思ったことも多くあったけれど、今はうまくはずす方法も身につけた。慣れとは最大の技術だと思う。
 彼らの外見に騙されてはいけない。今まで学校という社会からとことん嫌われはみ出さずにはいられなかった彼らは、ちょっとしたことで火を噴く素質を持っている。その刃は人に向けられることもあるのだが、ほとんどの場合自分に向けられるようだ。そして例外なく学校を去っていく。
 まともに教師と話したことも無いこどもたちも、この学校に来て初めて心開くときがくる。そうなってやっと学校というシステムが機能するようだ。そうなるには一年以上かかるなぁ。
 
 


更新時間 : 15:58:47


9月4日 (火)


はる 188
 「リトル・ダンサー」という映画を観る。アメリカ映画なのかイギリス映画なのかわからないけれど、舞台はイギリスのローカルな話だ。かみさんが借りてきたのでしかたなくつられて観てしまったのだが、最初は色々文句いいながらもついつい引き込まれてしまった。これはいい映画だった。たぶん誰も死なないし車が転がるわけでもないので、アメリカ映画ではないだろうね。
 あらすじは貧しい家庭のダンスの好きな子供が、やがてバレエに目覚めてサクセスしていく話だ。
 ロイヤルバレエ学校の面接で、「ダンスを踊っているときはどんな気がするか?」ときかれて「電気になる、何も考えられなくなる」と答えた。本当に好きなことやりたいことを見つけてられた子供は幸せだと思う。


更新時間 : 17:55:15


9月3日 (月)


はる 187 
 朝からアトリエに入り仕事する。狭いアトリエに130号のパネルを寝かせて下地作りをする。油絵を描いていた頃は少し今の状態と違っていた。よく知っているようにキャンバスというのはある程度の大きさになると巻かれた状態で売られている。そうでなければ画材店はキャンバスだけで埋まってしまうのでね。絵を描こうと思ったらキャンバスと木枠を別々に買ってきて自分で組み立てるとこから始まる。これがなかなか熟練を要する。広いアトリエを持つ方ならば何も苦労はないのだが、普通の家では一辺が2メーター近くのキャンバスは亀の甲羅より始末が悪い。
 油絵の場合、それでもなんとか張り込んでしまえばもう画面を床に寝かせることはほとんどない。ところが今の私のやり方だと、途中何回も画面をフラットにする必要が出てくるのでやっかいだ。(といいながらけっこうそれを楽しんでいるのだけれど)
 私の作品は絵というよりややオブジェに近づいてきたかもしれない。理由はいろいろなことが絡んで一口では言えないけれど、簡単に言えば「これの方が面白い」からというしかないね。今のところは、これからゆっくり語っていくつもりだ。エッ聞きたくない!
 


更新時間 : 17:41:48


9月2日 (日)


はる 186
 夏が終わりつつあるなぁ
 今日は日曜日。私にとっては他の日とそう代わり映えしないのだけれど。そうはいっても日曜日には休日の雰囲気、オーラーがそこかしこに流れているわけで、それだけでも少し幸せな気持ちになる。
 前から書こうと思いつつなかなかうまい文章にならずに途中までいって消してしまったりしている。今日もだめかもしれないがやってみる。
 「お茶」の事なんだけれど、もちろん私がそのことに詳しい訳ではない。なんとなくそうじゃないのかという事を書く。間違っていたら笑ってくれ。
 お茶の世界では「見立て」ということがある。例えば、昔朝鮮で使っていた日常雑器を「うん、これは作為がなくて優れものだ」などと誰かがいって、「名品」に格上げになったりする。そういうことが多々あって一種の「価値の変換」がそこでは行われているわけだ。千利休なんかそのことのある種天才で一級のアーチストだとおもうのだけれど。
 言いたいことは「お茶の世界」がそこのところ「価値の変換」に注目していた先人の頃はアートだったのではないかということだ。家元制度ができてピラミッド体制の習い事には何の魅力も感じないのだが、あるものを違った角度から見直して新たな価値を生むというスタイルは、現代の美術につながる立派なアートだと思う。
 最近では赤瀬川源平なんかがやっていた、町中観察家「トマソン」なんかもそうだけれど、(知らない人は勉強して下さい)この間から問題にしているジャンクアートなんかもこれに近いのかもしれんなぁ。どう思う?


更新時間 : 20:11:24


9月1日 (土)


はる 185
 昨日は午前中この9月22日からのグループ展「具象の仕掛け」展のDMができたということで、市内の小さな画廊に出掛ける。オーナーは私と同世代のこれもまた画家で「なぜ今画廊を開いたのか」を熱く語ってくれた。共感できるところ多し。下に電話番号と画廊の名前を掲示しておきますのでご覧になれる方は参考にして下さい。
 夜は知り合いのご夫婦と食事に出掛ける。酒が飲めない私は酒の場が苦手でほとんどの宴会、コンパ、飲み会に出席することはない。自分が飲めないということより、飲まないことで他の人が気を使う、楽しくないだろうと思われることが重荷になる。それなら最初から出席しない方がいいと思うのだ。よくしたもので最近はそういった誘いもこない。よく知った仲間と気遣いなく居られるのはとても好きなのだがね。で今回は食事ということで楽しかった。
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    「具象の仕掛け」展
    GALLERY the GALAXY
        2001.9/22~10/7 
        電話 055-227-3787
 




更新時間 : 19:09:16



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