あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

haru 6142 - 2018.02.15(作品)

はる 6142
 私のネット環境はケーブルテレビのプロバイダーと契約している。最初の頃は電話回線を利用した環境で、まだ常備接続ではなく深夜11過ぎにならないと普通の電話料金を取られるスタイルだった。だから出来るだけ簡単に必要な検索や自分のメールをチェックするくらいだったな。

 この春からこのケーブルもやっと光ファイバーになるそうで、二三日前にその工事の日程やらの相談にきた。料金は変わらないにしても結構っ面倒な工事をやるらしい。どれだけメリットがあるのか分からないのだけど、一応光にしないという選択はないようだからしかたない。

 この際だからという訳ではないが、いままでバラバラだった電話とテレビとネットを一緒にすれば少しは割安になるという説明だったのでそうすることにしたのだけれど、私のところは電話がアナログ回線の黒電話だからどうなんだろうな。

 しかし、音声も画像もテレビ電波も何もかも光で送れるってどういうことだ。デジタルというのは何でもかんでも0と1のパルスに変えてしまう。もう人間の理解できる信号ではない。


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ペルソナ - 2018.02.14(作品)

はる 6141
 


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ペルソナ9 - 2018.02.09(作品)

はる 6136
「この白い面を言語化していただきたい。どのように言語に置き換え、客観化し他者に伝えられるのか見てみたい」

ちょっと考えたので、載せてみます。やっぱり見た物を直接言語化などできないわけだ。どれだけ言い繕っても見えた物以上は嘘になる。ただ言いたかったことは何が自分にとって引っ掛かりを感じたのか、何がいいと思ったのか、なぜこれを作ろうと思ったのかそんなことを自分の中でもう一度フィードバックすることが相手に対して客観的に説明する手助けになるのではないかと思った。そのことを言っているように思う。どうでしょう。

「それについては概ね賛成です☺絵や彫刻を干渉する側に鑑賞の方向を伝える意味ではそうでしょう。ただ、作者と言えど言葉に出来ぬ思いは伝えられないでしょう。だからこそ絵や彫刻などの芸術があるのだし、文学があるのだと思います。榎並さんの言葉より、榎並さんの作品こそ多弁に語りかけていると思います」

 そこのところなのですが、鑑賞者にとっても同じことが言えると思うのです。「いい」と思った自分がそこにいます。なぜいいと思ったのか、何に魅力を感じたのか、言葉では言い表せないその「何ものか」が自分の「分身」なんでしょうね。そこにところを言語化して確認することは鑑賞者にとって無駄ではないと思います。

「作品に感じる何かとは、自分と言うより自分を含めた人を感じる事だと思っています。人という概念は、今そこにいる生身の人ではなく、そこに至る時間を内在した人・人物だと思います。単純に「白い面」更には「面長の白い肌には焦点を持たぬ二つの闇と、問い掛ける事を恐れるような口元が少し歪んで見える」幾分かは陰影も浮かぶが、この作品に近づけるとは思えない。文章に置き換える事が意識を整理する事にはなるが表層でしかなく心許ない。言葉ではなく、文章に置き換える行為は、自らを掘り下げるという意味で良いことだとは思います」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ネットのやり取りは基本やりません。言葉の掛け合いはきりが有りません。ここだけにします。しかし、最後の文章は内容がない気がします。言葉は多いですが、あまり意味が有りませんな。

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dellから - 2018.01.08(作品)

はる 6104
おはようございます。昨日は早く寝てしまった。参考になるかどうか、わかりませんが励みにはなりました。どうもありがとうございます。上手い下手というより大事なのはそれを見分ける眼力でしょうね。これはもう鉄斎じゃありませんが、万里をたびして、万巻の書を読んで、描くしかないでしょうなぁ。。死ぬまで。

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明けましておめでとうございます。 - 2018.01.01(作品)

 はる 6098
 皆様、あけましておめでとうございます。

 ひとつ謝らなくてはならないことがございます。何かと申しますと、今年は訳あって年賀状を作りませんでした。というわけで、あら今年はエナミから賀状が来ないわ、と思っている方にはまことにすみませんが、今年は賀状なしです。寒中見舞いもありません。ごかんべんください。もしよければこの画像を今年の干支として使ってもらって結構ですよ。

 まぁそろそろ賀状もやめようかと思っていたところなので、今年一回やめてみてどんな具合になるかみてみます。何の不都合もなければここまま終了にしようかと考えています。どんなもんかいな。

 万図、今年もよろしくお願いいたします。


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ささげもの - 2017.12.27(作品)

はる 6093
 大きな作品は難しい。このところどうも落ち着かない気持ちでいた。そのことを書いてみよう。独り言なのでとばして下さい。

 大きい作品を描いているといつもそんな気持ちにさいなまれる。部分的に上手くいくとどうしてもその部分に手が入らなくなる。そうすると全体のバランスが崩れてくる。何とかしようとあがけばあがくほど迷いの縁に落ち込んでしまう。

 抽象であれ具象であれ、作品のかなめは全体に同じ理で出来ているということであってその他の事は無視してもいいことなんだ。ここにきてどうも落ち着かないのは部分ばかり気にするからなんだな。人間の性でどうしようもないけど、どうしても保身にまわってしまう。今ある形を何とか最低限維持しようと考えてしまう。そうすると腕が縮んで上手く描けない。

 顔の部分というのはどうしても細かい描写になりがちだ。いつも思う事だけれど、顔かたちが上手くいったと思ったらそれは間違いの始まりだ。そこだけがとんでしまっている。全体がみえていない。何回も潰したけれどどうしても顔が上手く行かない。結局また振出しに戻って洗い流してしまった。全部きれいに洗い流して最初からやり直し。どうせ壊れるんだからと思って一気呵成に描いたら上手くいった。というのか全体の中の部分が描けた。これがなかなか難しい技なんだな。

 書に似ているかもしれんな。上手くやろうとすると失敗する。もうどうでもいいやと退路を断つと上手くいく。これは極意だな。生きる事も同じだ。保身にまわるとすべからくダメになる。すべてがばらばらに見えてくる。絵を描いても消化不良で何となく落ち着かない。面白くないのだな。ところが何かのきっかけで退路断つ、身を捨てる、とどこか普遍とつながるんだな。宇宙の理とつながる。そうなると何をやっても上手くいく瞬間がある。これはやった人間にしか分からんだろうな。


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2017「凍れる月」SM部分 - 2017.12.22(作品)

はる 6088
 「どう生きるか」という漫画本を借りて読んだ。この命題に一番敏感だった頃は高校生ぐらいのときだろうな。今凄く流行っているそうだけれど、何かすごく懐かしい感じがしたな。ただし、だからといってもうすでに解決した問題だという訳ではないな。未だに考えてづけているいる命題だな。ただ一つ言えることは色々やれる時間はもうあまりないという事だけだ。今までやってきたことをやり続けるしか方法はない。

 進路を選択するとき。簡単に言えば何大学の何学部を受けるのか、生涯何をしてどう生きたらいいのか、何でもできる、何にでもなれるということは、反対に何も選べないという事なんだな。20やそこらで何かこれからの人生すべてを見通せるわけない。考えても答えなどでてこない。だから悩むわけだな。

 私が一番悩んだのは学校の先生を続けるかどうか決めなきゃならない時だな。人生の選択であれほど悩ましい選択はたぶんこれからもないだろうな。あの選択があって今がある。それ以降はもう前に進むしかないわけだから、どんなに苦労があったとしてもそういった意味で悩むことは無くなった。

 ある種の居直りだけれど、好きな事をやって生きると決めたら貧乏はさして苦にはならない。有名になろうが無名で終わろうが野垂れ死にしようが、「どう生きるか」には関係がない。
 


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作品 - 2017.12.16(作品)

2017「風のない夜」F3 No2033 混成技法
はる 6082
 最初に借りていたプロバイダーのHPの容量が10Mだった。10Mといえば今じゃ大きな写真一枚ぐらいしかなく、画像を出来るだけ縮小するしか方法はなかった。というわけで最初の頃の画像はかなり小さくて荒いものになっていた。

 こういう記録媒体の進歩は凄まじいものでね。今じゃ小さなメモリーに10Gぐらい簡単に入れられるからな。10Gって言えば10000Mだよ。今使っているパソコンの横には別に2テラのハードディスクを付けている。1テラは1000Gだよ。もうほとんど人間の感覚じゃ無限大にちかい。


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ところ構わず寝たのです。 - 2017.12.05(作品)

はる 6071
 あったことをなかった事にはできない。どんなに言い繕っても他国を侵略した、蹂躙したという事実は消えない。個人の善悪は関係ない。それが戦争というものだ。国を愛するからこそ記憶しておいて欲しいのだ。原発も同じライン上にあるということを忘れてはならない。


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ジョット「誕生」1300年頃 - 2017.12.01(作品)


「2017」「キアラ」F0部分



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ジョット「誕生」1300年頃
はる 6067
 一見すると具象的な物や人物が描かれているので具象画の範疇に入るのかもしれない。しかし、FBなどで多くの作家の作品を観ていても、気持ちが惹かれるのはほとんどの場合抽象的な作品だ。どんなに上手い作品でももちろん自分では描けないし、テクニックに圧倒され素晴らしいとは思うけれど、心底感動することはない。あぁ上手いな、じょうずだなとは思うけれどね。

 上の絵も色んなコラージュの末に自然に出てきた形を利用しただけで、特に私が工夫して描いたという訳ではない。面白かったのはこういった形が見えてくるまでの混沌とした色の集合体や色んな布の重なりから生じる絵肌の違いなどで具体的な描写など何も考えていなかった。その頃が一番興味を持って仕事をしている時だ。段々に形が見えてくると急速に興味を失って行く。

 けれど、そんな混沌とした色遊び泥遊びのような状態では表現として何も喚起しない。感情的に訴えてくるものがない。結局は何もないと同じなんだな。表現というからには誰か見た人に何らかの感情を喚起しなければならない訳で、自分一人で楽しんで終わるわけにはいかないのだな。

 このベールをかぶった女の人がどこから出てきたのか分からなかったけれど、ずっと見ていてそうだジョットの人物に似ていたんだと気がついた。もう何年も前にスクロベーニの礼拝堂でみた「誕生」の中の一シーンのマリアの像に似ている。

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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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