
映画「Living」生きる」を観た。
黒澤明の「生きる」をノーベル文学賞作家のカズオイシグロが脚本を書いた。まぁそれだけで否が応でも期待が増す。しかし、黒澤の「生きる」を観た後味とこの映画を観た後味とはかなり違うものだ。特に黒沢の「生きる」を自己の映画史上ベスト5に入ると思っている人間には、評価は自ずから辛くなるのは致し方ないことだな。
「生きる」を観たことがない人に少しだけあらすじを書いておこう。ある老いた官吏がガンの余命宣告を受ける。それまでただなんとなく、お役所仕事を繰り返していただけの名もない真面目な公僕が何のための人生だったのか、俄然そこで考えるわけだな。要するに彼らにとっての仕事というのは如何にして自らの手を煩わせないようにするか、そのことが第一の重要ごとであって、そのほかの事は気に留める必要のない些細な事柄でしかない。住人の役に立とうなどという役人は一人もいないという前提で成り立っているという話だな。
メメントモリ「死を忘れるな」という有名なことわざがあるけれど、このテーマも形を変えたメメントモリだといえる。普段何気なく過ごしている日常生活も期限が切られると俄かに殺気立って一分一秒が大切に思えてくる。気が付く前も後も同じ時間が流れているにも関わらず、人間とは哀れなものだ。
最初に印象が少し違うと書いた。その根底には日本人の死生観と欧米人のそれの違いではなかろうか。「生きる」の主人公を演じる初老のうらぶれた窓際の志村喬と「Living」の英国紳士で高級官吏のビル・ナイとは受ける印象もかなり違う。それはそれとして、我々の中にはわりと死を受け入れやすい死生観があるように思うな。克服すべき悪というのはなく、極自然に日常生活の延長上に死を観ているような気がする。それに対して欧米の死生観は死は絶対の悪、克服すべきものというような、死を生の対局としてとらえているような気がするんだな。
だから反対に「生きる」を観た後味はねっとりとした哀愁と寂しさをまとっていてなかなか離れない、対して「Living」の方の後味はさっぱりとして肯定感に満ちている気がする。さて、どちらが好みなのか、観るひと次第であろう。