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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

今日のアトリエ - 2018.08.20(ポケットの窓から)


はる 6319
 山口画廊の山口さんとの邂逅も面白い。山口さん自身の「画廊通信」より抜粋
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2009/7/6

山口画廊・画廊通信66

許可を取って転載

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画廊通信 Vol.66 抜粋
          
 ・・・・私は、未だ携帯電話を「電話」という機能だけで使っている様な、到ってアナログ的な人間なのだが、榎並さんとの出会いは極めてデジタル的であった。昨年の初春、何気なくインターネットを覗いた際に、私のホームページに対して、好意的なコメントを寄せられているブログを見つけたのが、そもそもの機縁である。

 アナログ的とは言え、私も世の趨勢には逆らえず、実は簡単なホームページをこそこそと出していて、この時に掲載していたエッセイは、絵の売買を傍観する団体作家のスタンスを、私なりに批判した内容であったが、それに対してこのブログは「絵を売るという事について、言いにくい事をはっきり言っている」と、明確に賛同の意を表してくれていた。

 おかげで幼少よりあまり誉められた事のない私は、すっかり嬉しくなってしまい、一体どんな奇特な方が私なんぞに共感してくれたのかと、早速ブログの主を見てみたところ、なんとその方は画家なのである。ご自身で本格的なホームページを作られていて、どんな絵を描かれているのかと興味津々、掲載されていた作品を拝見させて頂いたら、これがなんとも心惹かれる絵ではないか。

ウェブ上の画像ではある程度までしか分からないにせよ、そこには紛れもなくあの「本物」の気韻がある、これは天が与え給う巡り合わせに違いない、私はそう思った。

 それから一ヶ月近くを経て、私は「榎並和春」という未知の画家へ、こわごわメールを送らせて頂いた。私の勝手な文章をブログに取り上げて頂き、ありがとうございます。あらためて自分の文章を読み返してみると、なんとも生意気でいけ好かない感じですね。実は私、失礼ながら榎並さんの事を、万年勉強不足のゆえ今まで知りませんでした。早速ホームページで作品を見せて頂き、ある種宗教的ともいえる様な深みのある作風に、心惹かれました。もし差し支えなければ画集や個展の資料等、お送り頂けないでしょうか」

 翌日パソコンを開けると、画家より返信が届いていた。ご丁寧なメール、ありがとうございます。どこでどうやって山口画廊さんとつながったのか、まるで覚えてないのですが、確か気になる作家の企画をやられている画廊だと認識していました。今回の『わたなべゆう』さんも好きな作家です。資料、できるだけ揃えてお送りしますから、ちょっと時間下さい。

 私のHPは、ほぼ私の等身大だと思います。本人が運営しているHPですから、確かな事でしょう。この程度の人間で、その程度の事しかやれていません。もしそれでよければ、お付き合い下さい。榎並」

 きっかり一週間後、幾冊もの写真ファイルと作品見本の入ったダンボール箱が、ありがたくも画廊へ届いたのだが、実はその時、私は連日の腹痛で立つ事もままならなくなっていた。翌日、私は緊急入院のハメになり、しばらくは仕事の出来ない成り行きとなった、せっかく送って頂いた沢山の資料を、画廊へ置き去りにしたまま。



「お元気になられたようで良かったですね。私の資料が着いて即入院だったので、何かしら見てはいけない物を見たせいかもしれないと、密かに危惧しておりました。でもまあ良くなったようで、ちょっと安心しました。少しゆっくりしろという暗示ではないでしょうか。またその内にお会いできる事を、楽しみにしています。ではまた、その時にでも。榎並」

 それから一ヶ月半ほど後、私はこんな心温まるお便りをいただいた。借りっ放しだった資料を、退院してやっと返却させて頂いた折の、画家からのメールである。ちなみにお預かりした資料は、妻が画廊から病室まで「重いのよねえ」とブーブー言いながら運んで来てくれて、おかげで私はベッドの上でお茶などすすりながら、その独自の世界を心行くまで堪能する事が出来た。暗い入院生活の中に、静かな希望が灯るのを感じながら。

 メールを頂いてから一週間程を経た午後、私は甲府の榎並宅へ伺わせて頂いた。晩春の陽光を川面に浮かべた穏やかな流れを渡り、川沿いの道を折れて路地を奥まった所に、目指す画家のアトリエはあった。一見して簡素なたたずまい、しかし時代の艶を湛えるかの様な古い家具が、諸処にさりげなく置かれていて、住む人の質の高い生活スタイルがうかがわれる。

 初めてお会いする画家は、隠遁せる一徹の哲学者といった風情、ご挨拶を申し上げてしばし歓談の後、制作途中の大作が立て掛けられたアトリエに案内して頂く。

 榎並さんの制作過程は独特である。麻布や綿布を水張りしたパネルに、ジェッソや壁土・トノコ等を塗り重ねて下地を作り、布等のコラージュを自在に交えながら、墨・弁柄・黄土・金泥・胡粉等々、様々な画材を用いて幾層にも地塗りを重ねる内に、その画面は風化した岩壁の様な独特のマチエールを帯びる。一口に言えば、「アクリルエマルジョンを用いたミクストメディア」とでも呼ぶべきか、しかし画家の制作姿勢そのものが「○○技法」という分類を、そもそも根本的に拒んでいる。たぶん榎並さんにとって「技法」とは、絵を完成させるための手段ではなく、何かに到るための道程に他ならない。

 幾重にも絵具を塗り、滲ませ、かけ流し、たらし込み、消しつぶし、また塗り込むという飽くなき作業の中で、画家は来たるべき「何か」を探し、その何かが見えて来る「時」を待つ。きっとそれが榎並さんの考える、「描く」という行為なのだ。やがて「時」が来る。いつの間に天啓の如く「何か」が画面へと降り立つ。ある時は修道士の姿を取り、ある時は笛を吹く楽士となり、おそらくは作者自身も意識しないままに、それは茫洋と画面にその全容を現わす。

 画家自らに入れて頂いた、香り立つアールグレイをいただきながら、私は「表現」という言葉の持つ両義性を、あらためて思い返していた。「表わす」事と「現れる」事、つまりは「自己の」作用と「自己以外の」作用、その両者が分かち難く一体となった所に、初めて真の「表現」が成立するのではないだろうか。あらためてその制作を省みた時、「自我の表出」という様な狭い範疇を超えた、「表現」という言葉の広範な在り方を、榎並さんはなんと明瞭に体現している事だろう。

 アトリエに立てられていた制作中の大作も、厚く幾重にも塗られた地塗りの中から、まさに今何かが浮かび上がらんとしていた。私にはそれが、何者かを真摯に希求してやまない、画家自身の姿にも思えた。・・・



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スイカ - 2018.08.19(ポケットの窓から)


はる 6318
 昼間何でかすごく渋滞に巻き込まれた。いつも混むところでないのに事故でもあったのか?と思った。ところがしばらく進むと車線変更の合図があって二車線が一車線になった。当然車は混雑する。この暑いのに一生懸命旗を振ってるおじさんがいる。ご苦労さん。

 それはいいのだけれど、一つ疑問がある。街路樹の剪定をしている。終わったところは綺麗に丸坊主になっている訳だが、少しおかしくないか。街路樹が大きく緑の葉っぱを茂らせて目にも優しい木陰をつくっている。運転していてもこの緑は美しいと思う。それなのになぜ一番糞暑い時に、木陰が必要な時に気を丸坊主にするのだ。

 やっている業者は仕事を委託されればそりゃいつでもやるだろう。しかし、あまりにも考えが足らなさすぎ、お役所仕事じゃないか。

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今日のアトリエ - 2018.08.18(ポケットの窓から)


はる 6317
 幸いにも何人かの画廊さんとのお付き合いを得ている。もう20年ぐらいの長いつき合いの画廊もあれば、最近つき合いの始まったがろうもある。ビジネスパートナーだからお互いの信頼関係が大事だなと思っている。私は古いタイプなのでそれなりの仁義を通すやり方を取っている。マイナーな作家だからそれくらいでちょうどいいだろう。

 デパートで始めたのは2007年からだ。自分にとってデパートの絵のイメージがとても悪い。大体が「綺麗、細かく、分かりやすい」の花鳥風月か美人画が多い。それ以前にもグループ展の企画で何回かデパートで展示会に加わったことはあった。その時の画商さんの対応があまりにもひどかったので、ますますデパートでの個展など自分の中では有りえないことだった。

 デパートに限らないのかもしれないが、画廊企画の場合売れないことには赤字になる。商売として画廊をやっている訳だから、毎回赤字だと半年も持たない。どんなにいい企画でも、評判になったとしても売れなければ失敗という事になる。むろん一つ一つの企画の収益は凸凹だろうけれどね。特に町の一等地にあるデパートはシビアだと思う。一度赤字になると次はないだろう。

 今でも不思議なのがなぜ私などに声がかかったのか?ということだな。どう考えてもデパート路線の絵ではないし、収益だけか考えれば私などよりいくらでも稼ぐ作家はいる。その方がお互いの為でしょうね。ここでその企画をするHさんの話をしなければならない。

 最初に声がかかったのが2005年ぐらいだったかな。一度会って話がしたいということだった。デパートで展覧会をするつもりはなかったからいい加減に聞いていた。たぶん物凄く不機嫌な対応をしたと思う。それでも話だけでもしたいので、また連絡しますということだった。それから一年ぐらい経った頃だったかな。もうすでに忘れてしまっていたのだが、今から会えますか?と大阪から電話が連絡があった。えっ今からですか、大阪からわざわざ来てくれるのですか?まぁもうそこで手に落ちたみたいなものだな。

 その後の事はまた。

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今日のアトリエ - 2018.08.17(ポケットの窓から)


はる 6316
 2007年に初めてデパートで個展をした。それから今年までほぼ隔年に開催している。そのことは私にとっては画期的なことだ。たぶん本人でさえデパートで個展をやるとは思っていなかったからな。しかし、日本の絵画市場をみると圧倒的にデパートで絵を買う人が多いのだな。それだけ画廊というスペースが絵を購入するという場というには敷居が高いということなんなんだろうな。もう一つは絵を観るという行為が日常生活から遊離しているということなんだろう。

 もう少しそんな事を書きたい。でも今日は眠い。またあした。


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三沢製麺 - 2018.08.16(ポケットの窓から)


はる 6315
 個展をやろうと思えば誰でもどこでもできる。ただしお金がかかる。画廊には大きく分けて貸画廊と企画画廊があることは何回か書いた。貸画廊で何回個展をやろうと経歴にはなるかもしれないが、ほとんど意味はない。それは趣味ですねという事になる。絵描きという仕事は間に画商さんを挟んで、知らない人に作品を買ってもらって初めてプロとなる。これがなかなか高い壁なんだな。画商さんがいいと思わない作品が売れるわけがない。売れるからいいとも思わないが、反対に売れないのは高級だとも思わないな。

 

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清里 めがね - 2018.08.15(ポケットの窓から)


はる 6314
 イタリアから帰ってきて考えたことは、今までのような山っ気のある一発当ててやろう、みたいな博打のような仕事に頼っていては自分の絵が段々と貧しくなるような気がして来た。自分が描きたいから描くのではなく、まず誰が審査員か調べてその人たちに受けるような絵を描こうとする。これは本末転倒だな。しかし、コンクールや公募展に出品する限り上位入賞がほしい。だんだんとそんなさもしい心根に傾いてゆく自分を発見してがっかりした。という訳できっぱりとコンクールとは縁を切ることにした。

 ならばどうなりたいのか考えた。確かに聞けばだれでもが知っている画家というのは何となく憧れるよな。けれど、もしそうなったとしてそれで満足かな。そうやって高名な画家になりたいのかと問われるとそうじゃないよなと思う。画家なんか知る人ぞ知るでいいだよな。新聞や雑誌で騒がれる、美術館や有名な画廊で企画される高名な画家もいいけどな。それは私ではない。

 マイナーならマイナーな生き方があるだろう。売れないな歌手とかバンドなど、はたまたドサマワリの演歌歌手、村から村へ移動する旅芸人、大衆芝居、サーカスなどなど、芸術家としてではなく一人の大道芸人としてならぴったりとその役割を果たせそうだ。出来るだけ近場にいる一人の作家としてその生きざまを見てもらう。一年間に創作した作品を携えて、いろんな場所に出かけて展覧会をする。観に来てもらって、今年はこんなことを考えました。こんな絵を持ってきましたといって、気に入ったら身近に置いてもらう。そんなスタイルが出来ないモノかと考えた。

 それには一緒にやってくれる、私の絵を好んで企画してくれる画廊がどうしても欲しいんだよな。絵の専門家である画商さんがこの作家と一緒にやりたいと思わない作家など、一般の人に受けるわけない。昔演劇の蜷川さんが「女(女房)ひとり騙せないような役者が、大衆を騙せるはずがない」そんなことを言ってた。その手でいうなら「画商一人騙せない絵描きが、コレクターを騙せるはずがない」あとは一緒にやってくれる画商さんの出現を乞うだけだけだった。

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今日のアトリエ - 2018.08.14(ポケットの窓から)


はる 6313
 1983年歳は31歳だな。この歳に兎に角初めて個展を開催した。当時はまだ美術館などなくて、大きな展示場といえば県民会館の地下展示場しかなかった。学生時代からの大きな作品をまとめて発表した。自分の中では画期的なことだっただったけれど、世間一般ではほとんど誰も相手にはしてくれなかった。当たり前だけどね。その後3年後の86年にも同じ会場で個展をしている。この時は「四季の丘」と題してテーマを決めて卒業してからの抽象的な大作を発表している。絵を描いてゆくとは決めていたけれど、それが実際にどいう事なのか、自分でもわかっていなかった。その年に結婚している。

 88年に一大決心をして東京の銀座で個展をすることにした。それと並行して色んなコンクールに出品している。この頃はまだほとんど小品は描いていない。兎に角、全国区のコンクールで受賞する事、少しでもこの世界で名前を売ることが世に出るきっかけになると固く信じていた。事実周りの知り合いが画壇の登竜門と言われるコンクールで大賞を取って一躍時代の寵児になって行くのを目の当たりにしていた。時代はバブルの絶頂期で各地で冠のっコンクールが盛んに開催されていた。

 90年から全国公募の美術団体国画会に出品するようになった。大作はこの公募展に合わせて描き、小品とともに地元のギャラリーと銀座のギャラリーで発表するという一年のサイクルが出来てきた。それでも作品はほとんど売れることはなかった。たまたま知り合いがカンパのつもりで買ってくれるだけで、そんなものは生活の足しにはならなかった。でも買ってくれる人が少しでもいるということが凄い慰めにはなったな。

 そうこうしているうちに93年にたて続けに大きな賞をもらった。何となく絵描きとしてやって行けるかのかなと、そんな兆しが感じられたころだ。今ならそこがターニングポイントだと分かるのだけど、その時は分からなかった。そんなことにはかまわず、一切を放棄してイタリアに行くことにした。一年間ほとんど旅して遊んで暮らした。帰ってきて油彩画を止めた。

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今日のアトリエ - 2018.08.13(ポケットの窓から)


はる 6312
 午後から夕立になって凄い土砂降りだった。久しぶりに本格的な雨だけれど、集中的に降っても流れるだけだな。それにしても最近の天候は熱帯のようだ。

 

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ポケットの窓から - 2018.08.12(ポケットの窓から)


はる 6311
 こんな子供だましのようなものをつくる。実はこんな風習をここに来るまで知らなかった。いや聞いたことはあるけれど、実家の方ではやらなかったな。迎え火も送り火もやらなった。どうしてだろう。他の家ではやっていたのだろうか。よく知らないなぁ。ここにきてどこの家庭もやることに驚いている。特別に先祖に冷たかったわけでもないだろうにな。

 さて、お盆になると終戦記念日を思い出す。事実は敗戦の日なんだけどね。退却を転進と言ったと同じような言い換えが未だになされている。原爆を落とされた。まぁすでにボロボロに負けていた訳だからあらためて皆殺し、これこそ虐殺だと思うのだけれど原爆を落とすことはなかったよな。よく戦争で捕虜の虐殺云々というけれど、広島長崎はそれこそ虐殺だな。ナチスのホロコースト以上だな。まぁそれが戦争だと言えばお互い様かもしれん。日本人も褒められたことはしていない。戦争というのは普通の人も悪魔に変えてしまう、それが恐ろしいのだな。時代の空気。これが怖い。

 戦後何もかも失って、本当に国民全員が裸になってしまったんだな。右も左もない真っ平なただの人になったわけだ。その時に希求したのがもう二度と戦争したくない。そこら辺の善良なおじさんもおっさんも悪魔のような人間に変えてしまう。でなければ人など殺せない。敵は人じゃないと教えられるわけだ。そんなことは二度としたくない。貧しくても食うや食わずでも戦争のない世界がどれだけ幸せだったか肝に銘じたわけだ。その多くの人の願いが新しい憲法の前文に書かれている。これを読むとひしひしと当時の人の気持ちが伝わってくる。

 これが我々の原点なんだな。何百万人の犠牲の元に得られた貴重な宝だとおもうな。日本だけじゃないな人類の宝といっていいかもしれん。理想というのはそういうモノじゃないかな。裸になって、何もかも失って初めて気づいたこと、その理念がここに結集されている。3・11もそれに近いショックだったけれど、敗戦はそれ以上だな。それにもかかわらずこれを変えようとする輩がいることが信じられない。何か意図的に目指すものがあるからなのか。彼らが目指す日本とはどういうものなのか。恐ろしいな。どんどんキナ臭い方向に行っているようで。

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今日のアトリエ - 2018.08.11(ポケットの窓から)


はる 6310
 

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